2023年08月23日

オチが書けるやつがストーリーが書けるやつだ

と僕は考えている。
オチの書けないやつは、刺激製造機でしかないと。


オチとはつまり、
これまでやってきた一連の全てが、
何の意味があったのかをまとめる行為である。

すべてはこの為にあったのだと納得して、
すとんと腹に落ちるからオチというのだろう。
つまり腹オチであるわけだ。

そこには、
なるほどという感心や、
整理して俯瞰する理性や、
暗示への読解が、
発生する。

それが出来ない人は、
とっ散らかって何にもならなかった話しか書けないだろう。
つまり落ちてない話しか書けない。


冒頭のツカミから途中の展開から、
ストーリー的な刺激を都度ふりまけば、
続けてみれる面白いものにはなる。

ただしそれと、
オチで腹オチすることとは、
まるで次元が異なると僕は考える。

ただ引っ張ればいい「途中」と違って、
オチには「全体の意味まとめ」が必要だからだ。


(最近の中では「ちはやふる」は、
オチに失敗したストーリーであるといえる。
ただそれまでは猛烈に面白かった)


僕が常に短編をたくさん書けと言っているのは、
ひとつにはこのオチをきちんと練習しろ、
ということだ。

ここがオリジナリティであり、
ここがテーマであり、
ここがすべてを決めるのである。

ラストシーンがオチでなくてもよい。
(大体ラストかラス前ではあるけど)
オチたな、と思うところがオチだ。

逆にオチたのに続けるのは蛇足で、
だからオチはラストかラス前だろうね。


オチのために必要なのは前振りであり、
クエスチョンであり、
係りであり、
うまくまとめられる各パーツである。

それらがないときちんとオチない。
だからオチのうまいやつは、
そもそも話が書けているわけ。

オチが決まらないなーって悩むやつの意味がわからない。

オチなんてオチを書く前にできてるんだよ。
その前のところが出来てないなら、
オチなんて一生できない。

だからオチの書けないやつは、
そもそもストーリーになってないんだよね。


うまく落とせないから、
作品のテーマを叫んで落ちた気になるのだろう。

オチとは間接話法であるのにも関わらず、
強引にオチにしてしまうのだろう。
もちろん、それも下手のやることだ。


100本のショートストーリーでも書けばわかるさ。
オチが全てを決めるし、
オチのために全てを決めないといけないし、
全てはオチのための伏線なのだ。

それが分かれば、
オチから書くことさえできるはずだ。

ということでオチの練習のために、
100本のショートストーリーを書くのは悪くない。
プロットでいいからやってみな。
結構体力いるよ。
ただそれをやったら、確実に伸びる。

世の中の作品の見方が変わってくるからだ。
「他の人はどうやってんだ?」が、
絶対気になるからね。
posted by おおおかとしひこ at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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