と僕は考えている。
オチの書けないやつは、刺激製造機でしかないと。
オチとはつまり、
これまでやってきた一連の全てが、
何の意味があったのかをまとめる行為である。
すべてはこの為にあったのだと納得して、
すとんと腹に落ちるからオチというのだろう。
つまり腹オチであるわけだ。
そこには、
なるほどという感心や、
整理して俯瞰する理性や、
暗示への読解が、
発生する。
それが出来ない人は、
とっ散らかって何にもならなかった話しか書けないだろう。
つまり落ちてない話しか書けない。
冒頭のツカミから途中の展開から、
ストーリー的な刺激を都度ふりまけば、
続けてみれる面白いものにはなる。
ただしそれと、
オチで腹オチすることとは、
まるで次元が異なると僕は考える。
ただ引っ張ればいい「途中」と違って、
オチには「全体の意味まとめ」が必要だからだ。
(最近の中では「ちはやふる」は、
オチに失敗したストーリーであるといえる。
ただそれまでは猛烈に面白かった)
僕が常に短編をたくさん書けと言っているのは、
ひとつにはこのオチをきちんと練習しろ、
ということだ。
ここがオリジナリティであり、
ここがテーマであり、
ここがすべてを決めるのである。
ラストシーンがオチでなくてもよい。
(大体ラストかラス前ではあるけど)
オチたな、と思うところがオチだ。
逆にオチたのに続けるのは蛇足で、
だからオチはラストかラス前だろうね。
オチのために必要なのは前振りであり、
クエスチョンであり、
係りであり、
うまくまとめられる各パーツである。
それらがないときちんとオチない。
だからオチのうまいやつは、
そもそも話が書けているわけ。
オチが決まらないなーって悩むやつの意味がわからない。
オチなんてオチを書く前にできてるんだよ。
その前のところが出来てないなら、
オチなんて一生できない。
だからオチの書けないやつは、
そもそもストーリーになってないんだよね。
うまく落とせないから、
作品のテーマを叫んで落ちた気になるのだろう。
オチとは間接話法であるのにも関わらず、
強引にオチにしてしまうのだろう。
もちろん、それも下手のやることだ。
100本のショートストーリーでも書けばわかるさ。
オチが全てを決めるし、
オチのために全てを決めないといけないし、
全てはオチのための伏線なのだ。
それが分かれば、
オチから書くことさえできるはずだ。
ということでオチの練習のために、
100本のショートストーリーを書くのは悪くない。
プロットでいいからやってみな。
結構体力いるよ。
ただそれをやったら、確実に伸びる。
世の中の作品の見方が変わってくるからだ。
「他の人はどうやってんだ?」が、
絶対気になるからね。
2023年08月23日
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