設定を何か崇高なものとして、
世界をつくることだと考えていると、
ストーリーはうまく行かない。
もちろん、世界を設定したり、
人物の背景を設定しているだけで楽しい、
という事情はある。
箱庭療法と同じである。
世の中には「架空の地図をつくる趣味」というものがある。
都市の地図をつくることで、歴史を考えたり、
人々の暮らしを設定する楽しみである。
これはまさに箱庭であり、
ジオラマや鉄道模型などはなべてそういう欲求を満たすものである。
さて。
じゃあ設定厨はそれでおしまいなのだろうか?
宗教なんてそうかも知れない。
宗教の、「世界はこのようになっている」という設定は、
箱庭療法の進んだものに過ぎず、
ジオラマを作っているだけかもしれない。
まあ宗教のそれはおいといて、
物語である。
ストーリーづくりにおいて、
設定というのはとても楽しい部分であるが、
そればかりを考えていると、
箱庭療法の罠にはまるぞ、
ということである。
設定ありきのストーリーではなくて、
ストーリーありきの設定にするべきだ、
というのが本題である。
設定はストーリーの前にあるものではない。
ストーリーが設定の前にあるべきだ。
なぜなら、
ストーリーを語ることがメインで、
設定を語ることはメインではないからだ。
もし「設定を語ることがメイン」であれば、
それでもかまわない。
鉄道模型や、架空地図や、
ぼくの考えた最強の世界を語ることがメインであれば、
設定がストーリーに優先するだろう。
むしろストーリーはいらなくて、
物語はあなたたちが紡ぐのです、
なんて放り投げてもいいくらいだ。
で、ストーリーだ。
ストーリーとは、
事件が起きて、それを主人公がどう解決するか、
というのが主軸である。
事件は設定に含まれないだろう。
解決の仕方やそれまでの展開も、
設定に含まれないだろう。
どういう人物が関係して、
どういう考えかたでどういう行動を取るか、
その結果はどうなるかも、
設定には含まれないだろう。
ストーリーとは時間軸を持つ変数である。
時間変数を持つものはストーリーであり、
時間変数がないもの、つまり静的なものは設定かも知れないね。
たとえば、
人物の過去や名前や職業や初期人物関係や特技は、
設定に含まれるだろうね。
しかし、それらが動的に絡むことは、
すべてストーリーだ。
つまり、ストーリーとは、
設定を使った動的な時間変数であるわけ。
で、設定はストーリーを生まない。
ストーリーのために設定をつくる、
というのが正しいストーリーの作り方だと思う。
たとえば「北斗の拳」を考えよう。
この話はまさか、
「人類の文明が滅亡した世紀末。
そこで何をするか?」
を考えてつくった物語ではないだろう。
「拳法でバトルする話が見たい!
しかし今現代拳法で戦う話は現実味がない!
だから銃のない世界にしたい。
よし、核で世界が滅亡したアフターものにして、
銃が通用しない世界にして、
拳法バトルを正当化してしまえ!」
というのが発想の根本だと思う。
ストーリーは拳法バトルで、
それを生かすために世紀末設定がある、
というわけだ。
つまり、
ストーリーが目的で、
設定が手段になっているわけ。
そして、
「拳法バトル」も、手段に過ぎず、
目的があるわけだ。
「ユリアを取り戻す」とか、
「継承者争い」とか、
「世紀末覇王になるため」とかだ。
ストーリーとはまさにこれのことで、
手段が拳法バトルで、
それらを成立させる籠が、設定であるわけだ。
つまり、設定とは言い訳である。
何かをやりたいがための、
言葉による言い訳なのだ。
「拳で世界を制する世紀末覇王と、
拳法で戦う」
ことをしたいならば、
「重火器がなくなってしまった、
核戦争後の世界」
という言い訳の中でやるよ、
というのが「北斗の拳」の基本構造、
というわけ。
もちろん、剣が生まれる前の、
縄文時代でやるとか、
そういう方法論もなくもないが、
さすがに拳法は生まれていないし、
そもそも言語体系も怪しいだろうから、
世紀末のほうが面白くなるだろう、
という読みがあったわけだね。
設定はつまり、
やりたいことの言い訳だ。
「このやりたいことを通すには、
どういう言い訳の上ならば成立するか」を考えることが、
設定を作ることだ。
女の子とセックスしたいという目的のために、
「ウチにいる猫を見に来ない?」
という言い訳をつくってあげる、
ということなのだ。
これは、
ただ世界を設定しているだけで楽しい、
箱庭療法のやっていることとはまったく違うことをやっている。
設定してて楽しいなあ、
というのは、ストーリーのための設定づくりとは、
多分まったく違うことをやっていると思う。
やりたいことがあり、
「それをやるための言い訳って難しいなあ。
都合よく全部成立するものがいいのだが……」
とあれこれ考えることが、
ストーリーづくりのための設定だと言えようか。
これは世界だけでなく、人物においても同様で、
「ユリアを巡って戦うことを成立させるために、
シンもラオウもユリアを愛していると設定しよう」
と考えているわけである。
設定はストーリーのための言い訳なのだ。
それがご都合に見えたらご都合主義者になってしまうだけで、
いかに自然な設定をして、
ストーリーにのめりこませるかが、
ストーリーテラーの手腕なのである。
もし設定をどれだけしてもストーリーが思いつかない、
という人がいたら、
それはアプローチが間違っている。
ストーリーをまず思いつく。
それが成立するように、
矛盾しない設定をあとづけでつくる。
そして、
その設定が最初から存在したかのように、
一幕の設定部分をつくる。
そういう逆算でつくらないと、
ストーリーのための設定はつくれないんだよね。
女の子とセックスしたいならば、
猫を見に来るとか、DVD見ようとか、
料理つくったとか、借りてたやつ返すとか、
終電がなくなったからとか、
部屋にあげるための言い訳を考えるだろう?
そのとき、ストーリーテラーと同じ脳の部分を使っているのだよ。
女の子だって行きたいが、セックスしたいから、
と分られても困るわけだ。
その、言い訳を用意してあげる練習をすればいいのだ。
もちろんセックスしたくない女の子は、
どんな言い訳でも部屋に来ない。
最初から求めている人に言い訳を用意するのが、
設定というわけだ。
北斗の拳で言えば、
激しい拳法バトルが見たいからこそ、
世紀末設定を受けいれるわけだね。
厳密な世紀末設定のリアリティ
(たとえばどことどこが戦争して、
どの程度人類が生き残っていて、今世界政府はどうなっているかとか、
戦争は継続しているのかとか)は、
主目的ではないということだ。
ただ拳法バトルの為だけの言い訳。
それが世紀末ということである。
そういう巧みな言い訳を考えられたら、
ストーリーとともに有効な設定となる。
「設定は魅力的だったのに、
ストーリーは詰まらなかった」なんて、
どこも褒めるところがないのだ。
主目的が詰まらないし、
それを生かす言い訳も下手で、
別の娯楽、箱庭療法を見せているだけだからね。
それがジオラマや展示ならいいけど、
やることは映画だよね。
2023年08月30日
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