よく出来た話というものは、
「この事件はどうなるのか?」から始まって、
いつのまにか、
「この人(たち)はどうなるのか?」
になっているものだ。
いきなり、
「この人たちはどうなるのか?」
と言われても、
どんな人か分からないし、
事情も知らないし、
とくに思い入れがないから、
引き込めない。
だからまずは、
「変な事件がおきている。
これはどうなるんだろう?」
というもので人目を惹き、
そこへ巻き込む。
どうも変なことがあるぞ、
この続きを見たいな、
どうやって解決するんだろう?
何がベストな解決なんだろう?
と思い、
中に入っていくものである。
そのうち、
その関わっている人に思い入れが出来始めて、
本当の心に触れて、
感情移入をいつの間にかしてしまい、
「この人(たち)が、
最後どうなるか見届けたい」に、
いつの間にか変わってゆくものだ。
そのようにしないと、
事件と解決だけの興味で、
二時間の集中力はもたないと思う。
よほど変わった、難しい殺人事件なら二時間もつ?
たぶん持たない。
なぜなら、
「二時間かかって解説される難しい問題と、
その解法」は、
そんなに面白くなさそうだからだ。
それは大学の講義のようなもので、
科学的興味駆動だよね。
そんなことで二時間じっとしてて、
「興味深い解決であった」
という満足ってなかなかないよな。
それは名授業じゃん。
逆に二時間にまとめるのはかなり大変だ。
15分で喋り切るか、
2時間×1年のほうが楽だよね。
うまく退屈せずに、
しかも2時間で事件と解決をまとめるのは、
かなりの技量がいる。
ドキュメンタリーでも作ってみればわかる。
5〜15分はもつ。
二時間ずっと集中できるほどの、
面白い問題やその解決や過程なんて、
書くことはかなり難しい。
十年に一本クラスの難易度だろう。
だからかも知れないが、
いつの間にか、
興味や焦点は、人に移る。
人は、問題よりも人を好きになる傾向があるからだ。
あるいは嫌いな人ね。
悪役が嫌な奴だったら、
それだけで倒せ!ってなるよね。
「RRR」は第一シーンでそれに成功している、
素晴らしい感情移入の映画だ。
二時間一緒にいるなら、
面白い問題か?
面白い人か?
という話だ。
多くの人にとっては、後者になるだろう。
そして、
名作というのは、
問題を解決する過程で、
いかに人の本質を炙り出せるか、
ということに尽きる。
問題はあくまでガワであり、
本質は人なのだ。
「人間が描けている」とは、
この人の本質が、
うまく描けているか、ということに尽きる。
絵で「人間がうまく描けている」とは、
骨格デッサンが見事で、
光や影がうまくて、
繊細さや柔らかさや躍動感みたいな、
人の何かしらの本質を捉えていて、
ああ、まさにそういう表情をすることがあるね、
そういう瞬間が人にはあるよね、
みたいなところに迫ったものをいうだろう。
物語における「人間がうまく描けている」とは、
ある困難にさしかかった人間の、
迫真の感情がうまく描けているかだ。
逃げてしまうリアルかもしれないし、
理想を捨てない姿かもしれないし、
人を助ける力かもしれないし、
人を見捨てる残酷さかもしれない。
その、物語によるそれが、
とても迫真で、
しかも他にはなく、
そして心に深く届くものになっているか、
だろう。
それは単なる点のリアクションではなくて、
線で描かれる。
ああすればこうなる、こうなればああなる、
みたいな過程において、
それが真に迫っているか、
どれだけ心に深く届くか、
みたいなことと関係している。
それらを経ていく上で、
「この人たちが最後どのような結末を迎えるかを、
見たい」となっていくわけだ。
だから、
ざっくりといえば、
事件が最初は焦点で、
その過程やターニングポイントが、
焦点ではあるものの、
それに対して、
登場人物への焦点が、
和音のように重なっていくべき、
ということを言おうとしている。
そしていつの間にか、
事件への興味よりも、
人への興味になるものが、
すぐれた映画だということだ。
つまり、事件と解決は、
人間ドラマにとってのマクガフィンに過ぎない。
おもしろそうな事件は見せ物件で、
本命は人間ドラマである。
ただし人間ドラマ単体だと肉体を持たないため、
事件と解決というガワに、
受肉させるのだ。
だから、
事件からはじまり、
いつの間にか人間に興味が移るのだ。
いきなり人間に興味を抱き、好きになり、
惚れ惚れすることは難しい。
タレントだって何回か必要で、
リアルの人ならば数ヶ月かかることも普通だ。
それを二時間でやるわけ。
だから、普通じゃない事件に巻き込む。
普通じゃない事件は、
吊り橋効果を生むのだ。
こうした、
事件-解決のラインと、
人間ドラマと感情移入のラインが分かっていれば、
いまどっちが優先で、
何が足りなくて、
次は何をするべきかが見えてくるはずだ。
プロットは主に前者のラインを書くが、
後者の計画をしないでよい、
というわけではないと思う。
また、「後半勝手に人物が動き、
プロットより魅力的になった」
という例が数多あるように、
計画的に人間は描けないのかもしれない。
だからまずは事件と解決のプロットをしっかりさせて、
その皿の上に人間ドラマを盛り付けるのだ。
もちろん、
人間ドラマと事件の解決は、
同時にフィニッシュする。
だからシンクロして気持ちよく、
それこそが物語のカタルシスといえる。
相対性理論が生まれた、では物語のカタルシスにならない。
あのアインシュタインが人間ドラマを解決して、
同時に相対性理論が誕生、
というカタルシスが、
物語の理想の形になるわけ。
そして相対性理論よりも偉大な人間ドラマに匹敵しない限り、
人間ドラマが事件と解決に負けるため、
アインシュタインのすぐれた物語映画は、
おそらくつくられない。
史実と反するわけにもいかんしね。
(逆に、人間ドラマと事件解決が釣り合うようなものは、
何度も映画化される可能性があるね)
これは、自作のチェックリストに使える。
ミッドポイントを過ぎたあたりで、
観客の興味はどうなっている?
「この人たちは最後どうなるんだろう?」が、
「この事件の結末は?」を上回ってるか?
そうなってないなら、
人間ドラマを見直した方がいい。
「この人たちと一緒にいたいなー、
事件とかどうでもいいけど」ならば、
事件と解決の焦点が弱い。
それはキャラに溺れてストーリーを見失ってる、
たんなるバラエティショーにすぎない。
どちらも必要で、
人間が後半追い上げる形になってるのが、
力強い物語というものだ。
「RRR」で見てみると、
ミッドポイントでは弟に感情移入し、
それを過ぎた兄の過去編で兄に感情移入する。
あとは二人の運命を、
見守るだけになるよね。
そして最後は痺れるような解決が待っている。
それが物語の醍醐味である。
2023年09月07日
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