2023年09月07日

事件から始めて人に至る

よく出来た話というものは、
「この事件はどうなるのか?」から始まって、
いつのまにか、
「この人(たち)はどうなるのか?」
になっているものだ。


いきなり、
「この人たちはどうなるのか?」
と言われても、
どんな人か分からないし、
事情も知らないし、
とくに思い入れがないから、
引き込めない。

だからまずは、
「変な事件がおきている。
これはどうなるんだろう?」
というもので人目を惹き、
そこへ巻き込む。

どうも変なことがあるぞ、
この続きを見たいな、
どうやって解決するんだろう?
何がベストな解決なんだろう?
と思い、
中に入っていくものである。

そのうち、
その関わっている人に思い入れが出来始めて、
本当の心に触れて、
感情移入をいつの間にかしてしまい、
「この人(たち)が、
最後どうなるか見届けたい」に、
いつの間にか変わってゆくものだ。

そのようにしないと、
事件と解決だけの興味で、
二時間の集中力はもたないと思う。


よほど変わった、難しい殺人事件なら二時間もつ?

たぶん持たない。
なぜなら、
「二時間かかって解説される難しい問題と、
その解法」は、
そんなに面白くなさそうだからだ。
それは大学の講義のようなもので、
科学的興味駆動だよね。

そんなことで二時間じっとしてて、
「興味深い解決であった」
という満足ってなかなかないよな。
それは名授業じゃん。

逆に二時間にまとめるのはかなり大変だ。
15分で喋り切るか、
2時間×1年のほうが楽だよね。

うまく退屈せずに、
しかも2時間で事件と解決をまとめるのは、
かなりの技量がいる。

ドキュメンタリーでも作ってみればわかる。
5〜15分はもつ。
二時間ずっと集中できるほどの、
面白い問題やその解決や過程なんて、
書くことはかなり難しい。
十年に一本クラスの難易度だろう。


だからかも知れないが、
いつの間にか、
興味や焦点は、人に移る。

人は、問題よりも人を好きになる傾向があるからだ。

あるいは嫌いな人ね。
悪役が嫌な奴だったら、
それだけで倒せ!ってなるよね。

「RRR」は第一シーンでそれに成功している、
素晴らしい感情移入の映画だ。


二時間一緒にいるなら、
面白い問題か?
面白い人か?
という話だ。

多くの人にとっては、後者になるだろう。

そして、
名作というのは、
問題を解決する過程で、
いかに人の本質を炙り出せるか、
ということに尽きる。

問題はあくまでガワであり、
本質は人なのだ。


「人間が描けている」とは、
この人の本質が、
うまく描けているか、ということに尽きる。

絵で「人間がうまく描けている」とは、
骨格デッサンが見事で、
光や影がうまくて、
繊細さや柔らかさや躍動感みたいな、
人の何かしらの本質を捉えていて、
ああ、まさにそういう表情をすることがあるね、
そういう瞬間が人にはあるよね、
みたいなところに迫ったものをいうだろう。

物語における「人間がうまく描けている」とは、
ある困難にさしかかった人間の、
迫真の感情がうまく描けているかだ。


逃げてしまうリアルかもしれないし、
理想を捨てない姿かもしれないし、
人を助ける力かもしれないし、
人を見捨てる残酷さかもしれない。

その、物語によるそれが、
とても迫真で、
しかも他にはなく、
そして心に深く届くものになっているか、
だろう。

それは単なる点のリアクションではなくて、
線で描かれる。
ああすればこうなる、こうなればああなる、
みたいな過程において、
それが真に迫っているか、
どれだけ心に深く届くか、
みたいなことと関係している。


それらを経ていく上で、
「この人たちが最後どのような結末を迎えるかを、
見たい」となっていくわけだ。


だから、
ざっくりといえば、
事件が最初は焦点で、
その過程やターニングポイントが、
焦点ではあるものの、
それに対して、
登場人物への焦点が、
和音のように重なっていくべき、
ということを言おうとしている。

そしていつの間にか、
事件への興味よりも、
人への興味になるものが、
すぐれた映画だということだ。


つまり、事件と解決は、
人間ドラマにとってのマクガフィンに過ぎない。

おもしろそうな事件は見せ物件で、
本命は人間ドラマである。

ただし人間ドラマ単体だと肉体を持たないため、
事件と解決というガワに、
受肉させるのだ。


だから、
事件からはじまり、
いつの間にか人間に興味が移るのだ。



いきなり人間に興味を抱き、好きになり、
惚れ惚れすることは難しい。

タレントだって何回か必要で、
リアルの人ならば数ヶ月かかることも普通だ。
それを二時間でやるわけ。

だから、普通じゃない事件に巻き込む。

普通じゃない事件は、
吊り橋効果を生むのだ。



こうした、
事件-解決のラインと、
人間ドラマと感情移入のラインが分かっていれば、
いまどっちが優先で、
何が足りなくて、
次は何をするべきかが見えてくるはずだ。

プロットは主に前者のラインを書くが、
後者の計画をしないでよい、
というわけではないと思う。

また、「後半勝手に人物が動き、
プロットより魅力的になった」
という例が数多あるように、
計画的に人間は描けないのかもしれない。

だからまずは事件と解決のプロットをしっかりさせて、
その皿の上に人間ドラマを盛り付けるのだ。


もちろん、
人間ドラマと事件の解決は、
同時にフィニッシュする。
だからシンクロして気持ちよく、
それこそが物語のカタルシスといえる。

相対性理論が生まれた、では物語のカタルシスにならない。
あのアインシュタインが人間ドラマを解決して、
同時に相対性理論が誕生、
というカタルシスが、
物語の理想の形になるわけ。

そして相対性理論よりも偉大な人間ドラマに匹敵しない限り、
人間ドラマが事件と解決に負けるため、
アインシュタインのすぐれた物語映画は、
おそらくつくられない。
史実と反するわけにもいかんしね。
(逆に、人間ドラマと事件解決が釣り合うようなものは、
何度も映画化される可能性があるね)



これは、自作のチェックリストに使える。

ミッドポイントを過ぎたあたりで、
観客の興味はどうなっている?

「この人たちは最後どうなるんだろう?」が、
「この事件の結末は?」を上回ってるか?

そうなってないなら、
人間ドラマを見直した方がいい。

「この人たちと一緒にいたいなー、
事件とかどうでもいいけど」ならば、
事件と解決の焦点が弱い。
それはキャラに溺れてストーリーを見失ってる、
たんなるバラエティショーにすぎない。

どちらも必要で、
人間が後半追い上げる形になってるのが、
力強い物語というものだ。

「RRR」で見てみると、
ミッドポイントでは弟に感情移入し、
それを過ぎた兄の過去編で兄に感情移入する。
あとは二人の運命を、
見守るだけになるよね。
そして最後は痺れるような解決が待っている。
それが物語の醍醐味である。
posted by おおおかとしひこ at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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