人生の正解は、問題が広すぎてわからない。
でも、
「この物語のこの人の、人生の正解」は、
あると思う。
それは、他人の人生だからだ。
我々は皆主観的人生を生きているから、
なかなか自分の人生を客観的にとらえられない。
だから正解が見えにくい。
でも、他人の人生ならよく見える。
「こうすればいいのに」
「これはやっちゃいけない」
「最終的にこうなれば最高の正解」
などは、
他人の人生だから見えやすい。
そしてそれは、三人称形式の、
映画やドラマや演劇の、本質かもしれない。
他人の人生を見せるわけだから、
その他人の人生の正解が見えながら、
客は見ていると。
毎場面毎場面、
その人が正解を引くとは限らない。
迷ったり間違ったりすることもある。
目の前のことに気を取られて大きな正解を引けないこともあれば、
最終的な正解を引くために、目の前では間違った選択をすることもあろう。
人生はクイズ番組ではない。
正解率100%でない人生で、
どうやって最後に大正解するかのゲームだ。
これが主人公一人だとまだいいのだが、
複数の人生が同時に走るのが物語である。
主人公は正解を引いたり間違いを引いたりしながら、
最終的に正解に辿り着くべきだし、
悪役は同様にして、
最終的に間違いに辿り着くべきだ。
脇役や第三者キャラの人生もそうだろう。
常に正解を引けないし、
間違う。
間違いだと思ったら正解だったこともある。
我々は「どんな人生でも再現できる人生シミュレーター」
を書いているのではない。
「その人たちの文脈での、最終的に正解を引くためのもの」
を作っているのだ。
選択をする(行動する、発言する、アクションする)のは、
主人公だけではない。
登場人物(メインは5〜6人であるべき、は僕の説)が、
全て選択をする。
なるべくその人の文脈で正解を引こうとしての行動だけど、
そうじゃない時もあるから人生は難しく、おもしろい。
それぞれの人生からみた、
正解を引いたり間違いを引いたりしながら、
最終的に正解に辿り着くまでを想像しよう。
(悪役は最終的に正解を引けなくなる)
「この人はこの時点ではベストな選択をした」
という場面をたくさんつくろう。
それが正解か間違いかは、
第三者である観客にはすぐにわかる。
もちろんすぐに分からないものもあり、
それがヒキということだ。
私たちはすべての人生の正解がわかるわけではない。
自分の扱うストーリーの、
メインの登場人物の人生の正解は、わかる。
じゃあ、それを邪魔するような障害を考えるのだよ。
間違いの選択になるようなものを用意したり、
挫折するようなものを用意すればいいのさ。
2023年09月11日
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