2023年09月26日

もっと揉めろ

映画が客観視点で語られる見世物である限り、
これが本質なんじゃないかねえ。


自分の人生で、もっと揉めろ、とか、
もっと炎上しろ、なんて思うことはない。
出来るだけ早く収束してほしいし、
そもそも揉めたくはない。

しかし見世物は逆だ。
揉めるほど、炎上するほど、面白いのだ。

だから、
作者は必死で揉めるものや炎上するものをつくっていたとしても、
観客は、
「物足りない。もっと揉めろ、もっと炎上しろ」と、
さらに過激な要求を持っているかもしれない。

それは、
あなたが観客であるときを思い出せばわかる。
「ここはシナリオライターが苦労したんだろうなあ」
などと思ってみる見世物は偽物だ。
もっと理性を忘れさせるような見世物が本物だ。
そういうものは見ていて、
「もっとやれ」としか思わないだろう。

もっとすごいものを。
もっと速いものを。
もっと強いものを。
もっと揉めを。
もっと困って。
もっと悲しく。
もっと楽しく。

娯楽を求める観客というのは、こういうものだ。
だって自分がそうでしょ?


作る側になったらそれが大変なのはわかるが、
観客とは作らない人のことなので、
そんなことはどうでもいいのだ。
面白いものを求めているだけのことである。

「自分を書いてはいけない」という戒めは、
ここでも機能する。
「これが自分だとしたら大変だから避けよう」
と思ってしまうことで、ストーリーが揉めなくなるんだね。
「これが他人の話だとしたら、
もっと揉めたほうが面白いのに」と思うべきなんだよ。

だから、もっと揉めろ。

専門用語としては、
「コンフリクトをもっと強く」などという。

具体的には、もっと揉めればよい。
感情的にもつれたり、
怒りの度合いを上げるようによりひどいことにしたり、
二律背反な気持ちになるように事情を作りこんだり、
揉めが継続するように、ややこしい事情にしたり、
他の人を巻き込んで、その関係も出てくるようになったり、
そもそも揉めることになった事件を、
よりひどいものに書き換えたりするわけだ。

自分の人生だったらいやだけど、
見世物としてはそれが理想である。
他人の痛みはいくらでも耐えられるし、
他人の不幸は蜜の味なのだ。

大体女性週刊誌なんて、そういうものの集まりだよな。
女は自分より不幸な女を見たいんじゃないかねえ。
他人の揉めや不幸を見ることは、
一種のマウントかも知れないね。

サーカスや物書きがお客様に対してへりくだるのは、
我々不幸な者を下に見て、
マウントをとってください、
という意味かも知れないね。


ということで、
もっとも不幸で、もっとも揉めて、
もっとも大炎上するような、
物語が、
一番面白いのである。

(もちろんそれは大逆転して、最高の幸福に反転しなければならない。
バッドエンドは短編ならば成立するが、
長編でバッドエンドは疲れるだけだ)


もっと揉めろ。
最高の大逆転の最大のソースである。
posted by おおおかとしひこ at 10:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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