映画が客観視点で語られる見世物である限り、
これが本質なんじゃないかねえ。
自分の人生で、もっと揉めろ、とか、
もっと炎上しろ、なんて思うことはない。
出来るだけ早く収束してほしいし、
そもそも揉めたくはない。
しかし見世物は逆だ。
揉めるほど、炎上するほど、面白いのだ。
だから、
作者は必死で揉めるものや炎上するものをつくっていたとしても、
観客は、
「物足りない。もっと揉めろ、もっと炎上しろ」と、
さらに過激な要求を持っているかもしれない。
それは、
あなたが観客であるときを思い出せばわかる。
「ここはシナリオライターが苦労したんだろうなあ」
などと思ってみる見世物は偽物だ。
もっと理性を忘れさせるような見世物が本物だ。
そういうものは見ていて、
「もっとやれ」としか思わないだろう。
もっとすごいものを。
もっと速いものを。
もっと強いものを。
もっと揉めを。
もっと困って。
もっと悲しく。
もっと楽しく。
娯楽を求める観客というのは、こういうものだ。
だって自分がそうでしょ?
作る側になったらそれが大変なのはわかるが、
観客とは作らない人のことなので、
そんなことはどうでもいいのだ。
面白いものを求めているだけのことである。
「自分を書いてはいけない」という戒めは、
ここでも機能する。
「これが自分だとしたら大変だから避けよう」
と思ってしまうことで、ストーリーが揉めなくなるんだね。
「これが他人の話だとしたら、
もっと揉めたほうが面白いのに」と思うべきなんだよ。
だから、もっと揉めろ。
専門用語としては、
「コンフリクトをもっと強く」などという。
具体的には、もっと揉めればよい。
感情的にもつれたり、
怒りの度合いを上げるようによりひどいことにしたり、
二律背反な気持ちになるように事情を作りこんだり、
揉めが継続するように、ややこしい事情にしたり、
他の人を巻き込んで、その関係も出てくるようになったり、
そもそも揉めることになった事件を、
よりひどいものに書き換えたりするわけだ。
自分の人生だったらいやだけど、
見世物としてはそれが理想である。
他人の痛みはいくらでも耐えられるし、
他人の不幸は蜜の味なのだ。
大体女性週刊誌なんて、そういうものの集まりだよな。
女は自分より不幸な女を見たいんじゃないかねえ。
他人の揉めや不幸を見ることは、
一種のマウントかも知れないね。
サーカスや物書きがお客様に対してへりくだるのは、
我々不幸な者を下に見て、
マウントをとってください、
という意味かも知れないね。
ということで、
もっとも不幸で、もっとも揉めて、
もっとも大炎上するような、
物語が、
一番面白いのである。
(もちろんそれは大逆転して、最高の幸福に反転しなければならない。
バッドエンドは短編ならば成立するが、
長編でバッドエンドは疲れるだけだ)
もっと揉めろ。
最高の大逆転の最大のソースである。
2023年09月26日
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