2023年09月27日

物語の本質は、肩の上の天使と悪魔だ

昔の漫画ではよくあったけど、
最近の漫画であるのかね。
あんまり見たことがないが。


肩の上に自分と同じ顔をした天使と悪魔がいて、
悪魔が「いいだろ、盗んじまえ」と言うのに、
天使が「困ってるかもしれないよ、返してきなさい」
なんて言い返して、
本人が「ああー、どっちがいいんだ?」って困るやつ。

つまり、天使と悪魔は、自分の中から分かれた二つの人格で、
正義と悪の極端な人格、
といえるだろう。

それらがコンフリクト(衝突、喧嘩、もめごと)を起こしているわけだね。


物語を書くという行為は、
まさにこのようなものだと僕は考えている。


どんなに主人公を自分と離したとしても、
どんなに他人をモデルにしたとしても、
結局主人公は自分から生まれた、
部分的自分である。
どんなに自分と離したとしても、
悪役も、
自分の部分的な人格だ。

モデルがいたとしても、
自分が書く以上、
「そのモデルになった人物の中に見つけた、
自分の部分的人格」
が動くことになるだろう。

逆に、だからこそ、
いろんな状況でアドリブで書けるわけだよね。

「こういうときはこのようにする」というマニュアルがあるわけじゃないから、
ある場面が来たとしても、
そのキャラなりの判断基準や価値基準で、
そのキャラっぽい行動や発言ができるのは、
自分の中の、
そのキャラっぽい部分人格が働いているからだと思われる。

その両極端なものが、
主人公と悪役、ということだ。


正義と悪の話ならば、
あなたの中の正義の人格と、
あなたの中の悪の人格が戦うわけである。

男女の話ならば、
あなたの中の男的な人格と、
あなたの中の女的な人格が、仲良くなったり喧嘩したりするのである。

上司と部下が揉める話ならば、
あなたの中の上司的な(先輩的な)人格と、
あなたの中の部下的な(後輩的な)人格が、
揉めるわけだ。

アメリカ人とロシア人が戦争する話ならば、
あなたの中のアメリカ人的な人格と、
あなたの中のロシア人的な人格が、
戦争をするのである。

アメリカ人やロシア人はあなたの中にいないかな?
取材するといいよ。
アメリカ人といっても色々いるだろうが、
あなたが理解したアメリカ人的な人格、
でいいと思う。
ロシア人も同様で、
喧嘩するならば、なるべく対比的にするだろうね。
だから、
取材していく中で、
アメリカ人とロシア人の決定的な違いは何か、
何が根本的に相いれないのか、
ということを研究することになるだろうね。
で、結局それって、
「自分の理解した彼ら」だから、
結局は、「最初から自分の中にいた人格」で、
それらを対決させることになるのは、
変らない、というわけだ。



だから、
あなたは最低でも二つの部分人格に対して、
変化をつくらないといけない。
ある人格は成功して、もう一方は失敗する。

どちらもあなたであり、
どちらもあなたの全部ではなく、部分的な他人である。
つまり、
物語とはあなたという人格の部分人格の、人生シミュレーションなのだ。
とはいえ、
完全に自分だとメアリースーになり、
ご都合で幸せになってしまうから、
突き放せるように、
他人だと認識できる何かにしておこう。


悪役に思い入れをしすぎて、
丸くなってしまったオーガ(刃牙)みたいにならないようにな。

オーガは負けるべきだった。
息子を強くするための手段として立ちはだかり、
息子の成長を喜んで死ねば、
伝説の悪役になれたのになあ。
このように、自分と切り離せないものになってしまうと、
失敗するので注意せよ。

肩の上の天使と悪魔だ。
肩には乗っているが、
あなた自身ではない。
その距離感でやるといいだろう。
posted by おおおかとしひこ at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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