ちょっと見てなかった時代劇映画を見ようと思って、
「武士の家計簿」を見たのだが、
脚本的ひどさに閉口した。
ああ、これが日本映画のダメなところだなあと。
ハリウッド脚本論が貫かれてるネトフリを見慣れた客は、
これを今いいと思わないんだろうなという感覚。
「流れ」が存在せず、
「時」が存在する感じ。
人の行動の焦点が小さく、
それは5〜15分で消失してしまい、
また別の行動の焦点が発生して、
同様。
焦点と焦点の関係はほぼなく、
ただ、小焦点の発生と消失を繰り返しているだけ。
それはまさに、
リアルな人の暮らしかもしれない。
それはだから、日記でしかない。
「武士の家計簿」だから、日記なんだよな。
「猪山家であったこと」を、
前後の繋がりなく、
コツコツと描いてるだけなのよね。
ああ、だから、これはストーリーではない。
「ホーホケキョとなりの山田くん」
というクソ映画と同じ構造だ。
きみたちの日記はストーリーではない。
映画はストーリーを見せるものだが、
ストーリーでないものも映画で見せることもある。
これは「猪山家の思い出」だろうかね。
前後の脈絡なく、
ただ並べてあるだけの時間だ。
そう、かつて、日本映画やフランス映画は、
こういう時間も映画にあった気がする。
それはフィルムが贅沢で、
それをただ見ているだけでも幸福があったからね。
今やデジタルになってしまって、
時間がすぎる幸福などなく、
事件解決の焦点をつなげることしか、
ストーリーではない、
くらいのものになっている。
退屈だが幸福なのと、
追い込まれて楽しいが疲れるもの。
この二つの対極にわかれているなあ。
前者は、ただ時が過ぎるのを描く、
「武士の家計簿」「コーヒーアンドシガレッツ」
「みつばちのささやき」「ツリーオブライフ」
「君たちはどう生きるか」。
タルコフスキーの「ノスタルジー」もだな。
「ホーホケキョとなりの山田くん」も。
見たことがないなら全部見てみな。とぶぜ。(寝る)
映画「いけちゃんとぼく」は、
原作(まさに少年の日記)をさばききれず、
こちらに足を突っ込んだ部分がある。
後者は、事件解決を強力な縦軸に、
人の行動から人生を描く、
焦点が全て関係して変転する、
「RRR」「トップガンマーヴェリック」をはじめとする、
パワフルに前進する映画だ。
「ルパン三世カリオストロの城」「風の谷のナウシカ」
「天空の城ラピュタ」はこっちだ。
ドラマ「風魔の小次郎」はこちら。
かつて日本映画は、
前者に埋もれていた中、
黒澤明などが後者のジャンルをやりはじめたと思う。
いや、後者もあったんだけど、
黒澤ほど明快に強い後者をやった人は、
あまりいない。
だからいまだに神様扱いされてるんだよね。
僕は、前者に陥らず、
後者を構築するべきだと強く感じている。
となると、
焦点の消失が、もっともやってはいけないことだろう。
焦点の発生→追いかけ→消失する前に、
次の焦点の発生→追いかけ→
の小ループと、
もっと大きな、「この流れの先に○○がある」
という大焦点が発生して、以下同
になっていないものは、
やっぱつまらんわ。
どうして「武士の家計簿」はつまらなくて、
「RRR」はおもしろいのか?
焦点の発生と消失を軸に辿ればわかる。
「RRR」は、妹が攫われたのを取り戻すことや、
外人の女に惚れて口説くことや、
囚われの身になることや、
インド愛国になることに、
焦点の発生と解決のうねりがあり、
そこに猛烈に感情移入しながら身を任せられる。
一本の川の濁流である。
「武士の家計簿」は、
米騒動とそろばんの話、
家計が苦しく家財道具を売る話、
葬式でもそろばんを弾く話、
子供の四文銭の話、
出兵の話など、
エピソードごとにバラバラで、直結していない。
だから退屈なのだ。
ちょいちょいフェードアウトが入り、
このエピソードここでおしまい、
になってるのが分かりやすくてひどい。
このことがハッキリわかるため、
2本の映画を比較して見てみることをおすすめする。
そして、
だから日本映画はダメなんだと諦めるか、
いや、このつまらねえ邦画を変えてやると思うかは、
自由だ。
そして、おもしろくて、パワフルな脚本を書こう。
2023年08月14日
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