いつ完成かを見極めることはとても難しい。
これ以上書き込んだら失敗かも知れないし、
これ以上書き込んだらもっと良くなるかも知れない。
料理の焼き加減と同じだろうか。
いつ、完成だと判断すればいいだろうか?
僕は、「整ったとき」だと思っている。
サウナーの言うところの、
「整ったー!」ということと、
そう変わりないと思う。
いろんな不調部分が正しい場所になり、
すべての血液が循環して、
腐っている部分や凝っている部分がなく、
完全に正しい姿を取り戻した、
みたいな状態だ。
それって、理屈じゃなくて、
感覚だと思うんだよね。
もちろん、理屈でチェックしていくことも、
出来なくもない。
しかし理屈だと全体の感覚というのはなかなかわからない。
それよりも、
感覚として、全体が整ったな、
という感覚のほうが正しかったりするものだ。
あれはあれと矛盾するな。
あれは伏線にしておきながら解消していないぞ。
二通りありえたのに、こっちのパターンはよくないなあ。
これはあれをするつもりだったのに、
使っていないなあ。
なんてものが、
リライトをすればするほど、
残り物のように残されている。
まさに垢やリンパ内の滓のようなものだ。
これらが、
すべて機能しなおし、
きちんと全体の流れに寄与するように書き直して、
ようやく「整った」という感覚になるはずだ。
よくできた原稿ならば、
感動してジーンとなるだろう。
泣くかもしれない。
怒りに震える場面もあるだろう。
笑ってしまう場面もあるだろう。
謎でひっぱったり、
拡大していく感覚が心地よい部分もあるだろう。
ちょっといいエピソードや不安などが、
胡椒のように効いている場面もあろう。
それらすべてが、
ラストのたった一行に向かって、
整列し、機能し、
整った時が、
(終わり)と書くべきときだろう。
この感覚は、
リライトの経験を積めば積むほど、
研ぎ澄まされていく。
「整った」慣れ、とでも言うべきだろうか。
揚げ物を上げるタイミングがわかってきた、
みたいなことだろうね。
熱がじんわり中に通り、
硬くならない、ちょうどいい生きの良さ。
そうなる絶妙なタイミングで終了するのがいいが、
リライトはそれを通り過ぎてもまだやる場合がある。
そうだとしても、
なお新鮮な料理である必要がある。
揚げすぎになってはならない。
揚げすぎたら、
揚げすぎてない状態に書き直さなければならない。
そうなるように全てを注意深く直して、
「まったくフレッシュな肉体として、
整った」状態を目指すべきなのだ。
観客はつねに初見だぞ。
その気持ちになれるか、
ということが一番大事だ。
「いやー、この場面とあの場面は都合でカットしちゃってさー」
なんて言い訳をするようならば、
まだ整っていない。
あー、何もかもうまくいった、
整った。
湯気が出るまで、やることだ。
「完成したー!」
だとまだ勢いでゴールテープ切っただけだな。
いろんな不備を残したままになっていると思う。
「うん、整った」という落ち着いた、
しかし全身に血流が回っている、
全てに掃除が行き届いた感覚こそが、
完成を示すと思う。
2023年09月30日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック