2023年09月30日

整った

いつ完成かを見極めることはとても難しい。

これ以上書き込んだら失敗かも知れないし、
これ以上書き込んだらもっと良くなるかも知れない。
料理の焼き加減と同じだろうか。
いつ、完成だと判断すればいいだろうか?

僕は、「整ったとき」だと思っている。


サウナーの言うところの、
「整ったー!」ということと、
そう変わりないと思う。

いろんな不調部分が正しい場所になり、
すべての血液が循環して、
腐っている部分や凝っている部分がなく、
完全に正しい姿を取り戻した、
みたいな状態だ。

それって、理屈じゃなくて、
感覚だと思うんだよね。

もちろん、理屈でチェックしていくことも、
出来なくもない。
しかし理屈だと全体の感覚というのはなかなかわからない。
それよりも、
感覚として、全体が整ったな、
という感覚のほうが正しかったりするものだ。


あれはあれと矛盾するな。
あれは伏線にしておきながら解消していないぞ。
二通りありえたのに、こっちのパターンはよくないなあ。
これはあれをするつもりだったのに、
使っていないなあ。

なんてものが、
リライトをすればするほど、
残り物のように残されている。
まさに垢やリンパ内の滓のようなものだ。

これらが、
すべて機能しなおし、
きちんと全体の流れに寄与するように書き直して、
ようやく「整った」という感覚になるはずだ。


よくできた原稿ならば、
感動してジーンとなるだろう。
泣くかもしれない。
怒りに震える場面もあるだろう。
笑ってしまう場面もあるだろう。
謎でひっぱったり、
拡大していく感覚が心地よい部分もあるだろう。
ちょっといいエピソードや不安などが、
胡椒のように効いている場面もあろう。

それらすべてが、
ラストのたった一行に向かって、
整列し、機能し、
整った時が、
(終わり)と書くべきときだろう。


この感覚は、
リライトの経験を積めば積むほど、
研ぎ澄まされていく。
「整った」慣れ、とでも言うべきだろうか。
揚げ物を上げるタイミングがわかってきた、
みたいなことだろうね。

熱がじんわり中に通り、
硬くならない、ちょうどいい生きの良さ。
そうなる絶妙なタイミングで終了するのがいいが、
リライトはそれを通り過ぎてもまだやる場合がある。
そうだとしても、
なお新鮮な料理である必要がある。
揚げすぎになってはならない。
揚げすぎたら、
揚げすぎてない状態に書き直さなければならない。

そうなるように全てを注意深く直して、
「まったくフレッシュな肉体として、
整った」状態を目指すべきなのだ。


観客はつねに初見だぞ。
その気持ちになれるか、
ということが一番大事だ。
「いやー、この場面とあの場面は都合でカットしちゃってさー」
なんて言い訳をするようならば、
まだ整っていない。


あー、何もかもうまくいった、
整った。

湯気が出るまで、やることだ。

「完成したー!」
だとまだ勢いでゴールテープ切っただけだな。
いろんな不備を残したままになっていると思う。

「うん、整った」という落ち着いた、
しかし全身に血流が回っている、
全てに掃除が行き届いた感覚こそが、
完成を示すと思う。
posted by おおおかとしひこ at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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