ある作品を見たときに、
アレがダメ、コレがダメ、ということは自由だ。
感想は人によって自由であり、
何を言っても構わない。
分かってない奴が語るな、は禁止で、
分かってない奴が語ることこそ、発言の自由である。
言論の自由は保障されるべきで、
芸術の鑑賞には自由権がある。
それと、批評は異なる。
批評は正しくダメ出しをしなければならない。
もちろん、
感想として気になった部分を提出することは、
批評の第一歩だ。
だがそれが、
瑣末な感想なのか、
根本的な感想なのかを見極めることである。
赤い色が気に食わなかったとしよう。
それは好みで言ってるだけなのか、
それとも根本的なのかを考えよう。
その赤が血の色で、
作品のテーマに関わる大事な赤だとしたら、
その赤が良くないのは、
作品の根幹に関わるところだ。
となると、それは瑣末な感想ではなく、
根本的な感想になる。
そして、なぜその赤がダメだったのかを論じ、
根本の構造を明らかにして、
こうあるべきだったのでは?
と論じれば、批評になる。
つまり批評とは、
あるものを見て、
レントゲンのように、
内部の構造まで立ち入り、
つまびらかにすることである。
その表面の表れとしての赤を、
根本まで掘り下げることだ。
もちろん、レントゲン写真のように、
すべてを明らかにしなくともよい。
その根本に必要な部分だけ論じるべきだ。
ということは、
どこからどこまでが根本的なことか、
を読解しなければ批評などできない、
ということだ。
他人の作品を見て批評眼を鍛えよう。
根本的なところはどこか、
それを捉えて感想を述べよう。
瑣末な気になるところがあれば、
それが根本的なところに繋がるなら批評しよう。
ただの瑣末であれば、
それはあなたの好みの日記に過ぎない。
さて、
ここからが本題だ。
あなたは、自分の作品に対して、
同様の批評眼を向けられるか?
ということである。
他人のものを正しく批評できない眼が、
自分作品を正しく批評できる保証があるだろうか?
鏡の見方を間違えた人が整形しても、
どんどん明後日の方向にしかいかないのではないか?
批評は正しいルートへのガイドだ。
灯台の照らし方を間違えたら座礁するに決まっている。
原稿を仕上げたら、
鉄は熱いうちに打てと、
すぐに読み上げてはいけない。
しばらく、最低一週間は見てはならない。
クールダウンするためだ。
書き上げたばかりの興奮は、
運動会に来てる我が子を見るように、
走ってて喜んでるだけで300%喜んでしまう、
贔屓目になっている。
あるいは逆に、瑣末なところを拡大して、
整形しなければと強迫観念にかられる、
自信のない近視眼になっている。
それを覚ますのだ。
だから書き上げた瞬間、
他人の作品を批評してみるとよい。
正しく批評できてるかな?
大抵は、自分の作品と比べて見てしまうのでは?
俺の作品と比べてここがよい、悪い、
ここは勝ってる、負けてる、みたいにね。
数作品はどうしてもそうなる。
それは、書き上げた熱量がまだ残っている。
しかしそのうち、
世の中の全ての作品や、歴史的作品や、
現代社会と比べて批評をしなければならぬと気づく。
そこでようやく、
瑣末な部分と、根本的な部分を切り分け、
正しい批評をするべきだとわかり、
そうしていくだろう。
そうなってきた時が、
ようやく自分の作品を客観的に見れる時だ。
スポーツの試合のビデオを見て反省するのとは少し違う。
スポーツの試合の場合、相手と自分だけ見てればいいが、
ストーリーの場合、
見るべきは観客全員と、過去現在の名作たちという、
とても広い範囲で批評しなければならないからね。
でもそんな目で自分の作品を見ることは恥ずかしく難しいので、
「他人の作品」として読むのが良い。
他人の作品ならば、
容赦なく根本的なダメ出しができる。
瑣末なダメ出しは置いといて、
軸足や急所の問題点を指摘できるだろう。
それは、
普段どれだけ他人の作品を正しく批評してきたかで決まる。
その正しい批評眼を、自分に向けなさい。
最初はズタズタだろう。
それでよい。
批評は攻撃ではない。
現状と理想の距離を計る、定規である。
理想が見えたら、リライトすることだ。
そして何回かループする。
何度も何度も異なるバージョンをつくる。
まるでパラレルワールドだ。
別の世界線を登場人物たちが生きて、
その最もうまくいく世界線を作り出すのだ。
そして根本的な欠点のない、
あとは瑣末な欠点しかない、
原稿になるまでやるのだ。
さて、
これを何度やってもダメ出しをしたくなるだろう。
ただ、
あなたの批評眼が、名作に対しても、
ある程度ダメ出しをすることは確実だ。
それと同程度の正しいダメ出しならば、
実はリライトは終わりに近いかも知れない。
概ね良いと思うが何か足りない、
みたいな抽象的なものでは批評になってない。
理想を示せなければ批評ではない。
ここでもっと泣けるべきだとか、
ここでもっと明るく大爆笑しなければ、
なぜなら、
などなど、
具体的な指示が必要だ。
具体的な指示が出来ないなら、
それは作品が完成したか、
あなたの批評が中途半端かの、
どちらかであろう。
良い部分と悪い部分をリストアップし、
トータルでプラスになっていれば、
良い作品になっているだろう。
良い作品というのは、
見終えたあとに、
熱い思いが残ったり、
心が軽くなったり、
スッキリしたり、
心が整ったりと、
一つの良い影響が残るものである。
そうなってれば、出口まできたと思って良い。
あとはその質を高められれば、で良い。
完成を見極めることは難しい。
自分のリライト力の限界もある。
「これ以上直すとぐちゃぐちゃになるな」
を見極めて引くことも大事だ。
前の良かった版を引き継ぐことも大事だ。
それは、正しく批評しなければできない。
正しく自分のリライト力も批評することだ。
最終的には、
なんだか空気を纏った感じになったり、
オーラが出るものになる。
欠点が多少ありつつも、
そうなったら完成だな。
2023年10月02日
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