2023年10月02日

正しいダメ出しが出来るか

ある作品を見たときに、
アレがダメ、コレがダメ、ということは自由だ。
感想は人によって自由であり、
何を言っても構わない。

分かってない奴が語るな、は禁止で、
分かってない奴が語ることこそ、発言の自由である。
言論の自由は保障されるべきで、
芸術の鑑賞には自由権がある。

それと、批評は異なる。
批評は正しくダメ出しをしなければならない。


もちろん、
感想として気になった部分を提出することは、
批評の第一歩だ。

だがそれが、
瑣末な感想なのか、
根本的な感想なのかを見極めることである。

赤い色が気に食わなかったとしよう。
それは好みで言ってるだけなのか、
それとも根本的なのかを考えよう。

その赤が血の色で、
作品のテーマに関わる大事な赤だとしたら、
その赤が良くないのは、
作品の根幹に関わるところだ。

となると、それは瑣末な感想ではなく、
根本的な感想になる。

そして、なぜその赤がダメだったのかを論じ、
根本の構造を明らかにして、
こうあるべきだったのでは?
と論じれば、批評になる。

つまり批評とは、
あるものを見て、
レントゲンのように、
内部の構造まで立ち入り、
つまびらかにすることである。
その表面の表れとしての赤を、
根本まで掘り下げることだ。

もちろん、レントゲン写真のように、
すべてを明らかにしなくともよい。

その根本に必要な部分だけ論じるべきだ。

ということは、
どこからどこまでが根本的なことか、
を読解しなければ批評などできない、
ということだ。


他人の作品を見て批評眼を鍛えよう。
根本的なところはどこか、
それを捉えて感想を述べよう。
瑣末な気になるところがあれば、
それが根本的なところに繋がるなら批評しよう。
ただの瑣末であれば、
それはあなたの好みの日記に過ぎない。

さて、
ここからが本題だ。

あなたは、自分の作品に対して、
同様の批評眼を向けられるか?
ということである。


他人のものを正しく批評できない眼が、
自分作品を正しく批評できる保証があるだろうか?

鏡の見方を間違えた人が整形しても、
どんどん明後日の方向にしかいかないのではないか?

批評は正しいルートへのガイドだ。
灯台の照らし方を間違えたら座礁するに決まっている。


原稿を仕上げたら、
鉄は熱いうちに打てと、
すぐに読み上げてはいけない。

しばらく、最低一週間は見てはならない。
クールダウンするためだ。

書き上げたばかりの興奮は、
運動会に来てる我が子を見るように、
走ってて喜んでるだけで300%喜んでしまう、
贔屓目になっている。
あるいは逆に、瑣末なところを拡大して、
整形しなければと強迫観念にかられる、
自信のない近視眼になっている。

それを覚ますのだ。


だから書き上げた瞬間、
他人の作品を批評してみるとよい。
正しく批評できてるかな?

大抵は、自分の作品と比べて見てしまうのでは?

俺の作品と比べてここがよい、悪い、
ここは勝ってる、負けてる、みたいにね。

数作品はどうしてもそうなる。
それは、書き上げた熱量がまだ残っている。

しかしそのうち、
世の中の全ての作品や、歴史的作品や、
現代社会と比べて批評をしなければならぬと気づく。

そこでようやく、
瑣末な部分と、根本的な部分を切り分け、
正しい批評をするべきだとわかり、
そうしていくだろう。

そうなってきた時が、
ようやく自分の作品を客観的に見れる時だ。


スポーツの試合のビデオを見て反省するのとは少し違う。
スポーツの試合の場合、相手と自分だけ見てればいいが、
ストーリーの場合、
見るべきは観客全員と、過去現在の名作たちという、
とても広い範囲で批評しなければならないからね。

でもそんな目で自分の作品を見ることは恥ずかしく難しいので、
「他人の作品」として読むのが良い。

他人の作品ならば、
容赦なく根本的なダメ出しができる。
瑣末なダメ出しは置いといて、
軸足や急所の問題点を指摘できるだろう。

それは、
普段どれだけ他人の作品を正しく批評してきたかで決まる。


その正しい批評眼を、自分に向けなさい。



最初はズタズタだろう。
それでよい。
批評は攻撃ではない。
現状と理想の距離を計る、定規である。

理想が見えたら、リライトすることだ。

そして何回かループする。

何度も何度も異なるバージョンをつくる。

まるでパラレルワールドだ。
別の世界線を登場人物たちが生きて、
その最もうまくいく世界線を作り出すのだ。

そして根本的な欠点のない、
あとは瑣末な欠点しかない、
原稿になるまでやるのだ。


さて、
これを何度やってもダメ出しをしたくなるだろう。

ただ、
あなたの批評眼が、名作に対しても、
ある程度ダメ出しをすることは確実だ。
それと同程度の正しいダメ出しならば、
実はリライトは終わりに近いかも知れない。

概ね良いと思うが何か足りない、
みたいな抽象的なものでは批評になってない。
理想を示せなければ批評ではない。

ここでもっと泣けるべきだとか、
ここでもっと明るく大爆笑しなければ、
なぜなら、
などなど、
具体的な指示が必要だ。


具体的な指示が出来ないなら、
それは作品が完成したか、
あなたの批評が中途半端かの、
どちらかであろう。

良い部分と悪い部分をリストアップし、
トータルでプラスになっていれば、
良い作品になっているだろう。



良い作品というのは、
見終えたあとに、
熱い思いが残ったり、
心が軽くなったり、
スッキリしたり、
心が整ったりと、
一つの良い影響が残るものである。

そうなってれば、出口まできたと思って良い。
あとはその質を高められれば、で良い。


完成を見極めることは難しい。
自分のリライト力の限界もある。

「これ以上直すとぐちゃぐちゃになるな」
を見極めて引くことも大事だ。
前の良かった版を引き継ぐことも大事だ。
それは、正しく批評しなければできない。

正しく自分のリライト力も批評することだ。


最終的には、
なんだか空気を纏った感じになったり、
オーラが出るものになる。
欠点が多少ありつつも、
そうなったら完成だな。
posted by おおおかとしひこ at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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