たまに勘違いしてしまいがちなこと。
作者にとっては、全ての要素が見えている。
あれとあれがこう関係して、
それとそれが実はつながっていて、
あれとこれがここでこうなる予定であると。
魔法陣とか、カードを並べるような感覚であろう。
関係があるものを並べなおして、
まるで全体を形作っていくような感覚だ。
(なんなら、カード法というプロットの作り方すらあるわけで)
だから、作者は俯瞰的で、関係性をすべて把握している。
まあそうじゃないと書けないから当たり前なんだけど。
だが、それは観客のほうを見ていないぞ、というのが本題。
作者にとってはどんなに明らかな魔方陣だろうが地図だろうが、
観客にとっては一本道でしかない、ということを想像しよう。
一本道とはいえ、
少し前しか見えていない。
足元しか見えていないことすらある。
後ろは今まで通ってきたものだから、
振り返れば見えるとしても、
少し先しか見えていない状態で、
ずっと一歩一歩進んでいるのが、観客というものである。
作者がどんなにその迷路の構造を分っていたとしても、
作者がこの先どのようなことがあるか知っていたとしても、
観客はそれを知らない。
目の前の少し先しか見えていない。
そのことを想像しながら書いているか?ということだ。
つまり、
「これからだいぶ先にあるイベントのために、
今は適当でよい」は許されない。
その先にあることは知らないから、
観客は適当な今しか見えていない。
これが作者を信用しなくなる瞬間である。
あるいは、
「あれとあれがのちのち関係してくるが、
今は伏せておく」もよろしくない。
伏せておかれる間の時間、
他に注目するべき面白いポイントがあれば、
その道を進めばいいだけだが、
あとあと使うためだけに平坦で詰まらない道を歩かされると、
飽きてくる。
つまり、
観客には「今」しかない。
それに比べて作者は、あらゆる時が見えている。
その、あらゆる時や因果関係が見えていない状態の、
「今」しか見えていない観客のハートをコントロールすることが、
作者のするべきことなのだ。
それを忘れて、
全体の構成の美しさとか、地図のことばかり考えているのは、
作者として下手だということを想像しよう。
つねに、「今」に集中させて、
椅子にくぎ付けにできているかをチェックしよう。
次起こることはなんだ?
今まで起こったことから、これを予測しているのではないか?
その観客の夢中をコントロールしよう。
それをやりながら、
地図をこっそり見て、
うまくその地図の方向に誘導していかないといけないのだ。
つまり、作者は砂被りの状態のコントロールと、
俯瞰した全体のコントロールを同時にしなければならず、
しかも後者を悟られたら負けということだ。
100%前者しかやっていないように見える、
全体をいつの間にかやっている、
という手品をしなければならない。
ともすれば、
全体をパズルのように美しく組み上げた時点で、
仕事が終わったかのように錯覚するパターンがある。
構成を必死で考えたり、
三幕構成その他を意識していろいろと移動させたり切り貼ったり、
骨格だけを考えているときは、
構造をつくった段階で満足してしまう。
それは観客から見えていないものであり、
観客から見えているのは、
「今」の夢中しかないということを、
常に思い出すべきだ。
今つくっているものは、
たいへんパズルが難しく、
時々「今」がつながっていない部分があることが、
なんとなくわかってきた。
その「今」をつなげていくと、
構造が見えていないが夢中になるものになり、
かつ俯瞰したときに、
こういう構造になっていたのかー、
と感心する出来になるんじゃないか、と少し思っている。
うまくいくかどうかは、全体をやってみないとわからないが。
ということで、
観客には今の道しか見えていない。
その道が一番面白いようにつくろう。
全体の地図や構造を前もって悟られたら、むしろ作者の負けである。
2023年10月11日
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