2023年10月11日

作者にとっては地図だが、観客にとっては道

たまに勘違いしてしまいがちなこと。


作者にとっては、全ての要素が見えている。
あれとあれがこう関係して、
それとそれが実はつながっていて、
あれとこれがここでこうなる予定であると。

魔法陣とか、カードを並べるような感覚であろう。
関係があるものを並べなおして、
まるで全体を形作っていくような感覚だ。
(なんなら、カード法というプロットの作り方すらあるわけで)

だから、作者は俯瞰的で、関係性をすべて把握している。
まあそうじゃないと書けないから当たり前なんだけど。

だが、それは観客のほうを見ていないぞ、というのが本題。


作者にとってはどんなに明らかな魔方陣だろうが地図だろうが、
観客にとっては一本道でしかない、ということを想像しよう。


一本道とはいえ、
少し前しか見えていない。
足元しか見えていないことすらある。

後ろは今まで通ってきたものだから、
振り返れば見えるとしても、
少し先しか見えていない状態で、
ずっと一歩一歩進んでいるのが、観客というものである。

作者がどんなにその迷路の構造を分っていたとしても、
作者がこの先どのようなことがあるか知っていたとしても、
観客はそれを知らない。
目の前の少し先しか見えていない。

そのことを想像しながら書いているか?ということだ。

つまり、
「これからだいぶ先にあるイベントのために、
今は適当でよい」は許されない。

その先にあることは知らないから、
観客は適当な今しか見えていない。
これが作者を信用しなくなる瞬間である。


あるいは、
「あれとあれがのちのち関係してくるが、
今は伏せておく」もよろしくない。

伏せておかれる間の時間、
他に注目するべき面白いポイントがあれば、
その道を進めばいいだけだが、
あとあと使うためだけに平坦で詰まらない道を歩かされると、
飽きてくる。

つまり、
観客には「今」しかない。


それに比べて作者は、あらゆる時が見えている。
その、あらゆる時や因果関係が見えていない状態の、
「今」しか見えていない観客のハートをコントロールすることが、
作者のするべきことなのだ。

それを忘れて、
全体の構成の美しさとか、地図のことばかり考えているのは、
作者として下手だということを想像しよう。



つねに、「今」に集中させて、
椅子にくぎ付けにできているかをチェックしよう。
次起こることはなんだ?
今まで起こったことから、これを予測しているのではないか?
その観客の夢中をコントロールしよう。

それをやりながら、
地図をこっそり見て、
うまくその地図の方向に誘導していかないといけないのだ。

つまり、作者は砂被りの状態のコントロールと、
俯瞰した全体のコントロールを同時にしなければならず、
しかも後者を悟られたら負けということだ。
100%前者しかやっていないように見える、
全体をいつの間にかやっている、
という手品をしなければならない。


ともすれば、
全体をパズルのように美しく組み上げた時点で、
仕事が終わったかのように錯覚するパターンがある。

構成を必死で考えたり、
三幕構成その他を意識していろいろと移動させたり切り貼ったり、
骨格だけを考えているときは、
構造をつくった段階で満足してしまう。
それは観客から見えていないものであり、
観客から見えているのは、
「今」の夢中しかないということを、
常に思い出すべきだ。



今つくっているものは、
たいへんパズルが難しく、
時々「今」がつながっていない部分があることが、
なんとなくわかってきた。

その「今」をつなげていくと、
構造が見えていないが夢中になるものになり、
かつ俯瞰したときに、
こういう構造になっていたのかー、
と感心する出来になるんじゃないか、と少し思っている。
うまくいくかどうかは、全体をやってみないとわからないが。


ということで、
観客には今の道しか見えていない。
その道が一番面白いようにつくろう。
全体の地図や構造を前もって悟られたら、むしろ作者の負けである。
posted by おおおかとしひこ at 00:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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