タイピングゲームで速くなることは目的ではない。
目的は、作業を効率良くして、
文章の質と量をあげることだ。
だから「○○配列で速くなった」ではなくて、
「○○配列で文章が書きやすくなった」
「○○配列で疲れずに書き続けられる」
が結果であるべきだと考える。
たとえば車乗りで、スピード狂な人たちがいる。
車でスピードを出すことは本来、
荷物を早く運んだり、
早く目的地に着くことで向こうでの滞在を自由にするためだ。
それがスピード(やスリルや達成感)
だけが目的になってしまった人を、
スピード狂というのだろう。
スピードの魅力はもちろんあるから、
趣味としてそれを追求する分には自由だけど、
手段が目的化してるよなあ、
と俯瞰した目から見て思ってしまう。
もちろん、○○配列で秒○打打てるようになった、
などの客観的数値を比較することは楽しいが、
それは目的ではないよねと。
本当は、その先の文章が目的で、
その文章をもって○○配列を褒め称えるべきなのに、
ネットに散らばる文章は、
スピード狂の数字ばかりだ。
なんだろうね、
学園ものが人気な理由
(社会に出たあとよりも、
成長が実感できる時代の方が楽しかった)
と関係するかもね。
で、学園もののつづきの社会人編って、
大体面白くないんだよね。
楽しかった成長が鈍化するからかなあ。
だからタイピングゲームに挑んでいた人も、
成長が鈍化すると記事がなくなっていく。
結果、
「はじめました!」「○○ランクになりました!」
「○○ランク!これで元の配列の8割ぐらい!」
までの記事たちが量産されては終わっていくんだよね。
そうじゃなくて、
「○○配列を業務で使う上での優位点」や、
「○○配列で小説書いてるんだがマジ捗る」や、
「○○配列だと文章を書くのに苦にならない」、
「○○配列で生産量2倍」なんて記事が、
もっと増えるといいのになあ、
と思う。
○○配列で検索して得られるネット記事が、
毎度毎度タイプウェルや寿司打やエタイの話題ばかりで、
うーむ、と思ってしまう今日この頃。
僕が「配列を変えればいいのでは?」
と思った頃、知りたかったのは、
「配列を変えた前後で、人生は変わるのか?」
だった。
僕は変わったよ。
書きたいのに書けない人生から、
するすると書き続ける人生にね。
カタナ式、薙刀式は、
qwertyローマ字に縛られていた僕の手を解放して、
脳から字に直結する方法を得た。
結果スピードは2倍、3倍になったが、
スピードよりも「その先にあったもの」をつかめたことのほうが、
人生にとってよほどよい。
もちろん、快適なスピードは人生のQOLをあげる。
配列は手段ではなくて目的だ。
そろそろ、目的にとってどうだったか、
という評価基準で語ってもいいんじゃないか。
総括でもいいし、途中経過でもいい。
言語化が難しい領域であるからこそ、
そこに手を伸ばすための道具が配列だと思うんだよね。
2023年08月25日
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