「思考速度で文字を打つ!」
なんて界隈ではよくいうけど、
実際のところ、
思考速度と言語化速度という別のものがある気がする。
僕の中では、
思考速度のほうが速くて、
思考して、それから言語化して、
言語化速度と同時くらいにタイピングしてる感覚がある。
つまり僕の思考は、
言語ではない何かによってなされているようだ。
それが言語に変換される感覚がある。
なので、
思考速度>言語化速度≒薙刀式の速度
となるのが理想の状態。
ただし。
思考というのは、一対一で言語に対応しているわけではない。
もう少し曖昧でもやっとしたものの時が多い。
だから、
そのもやっとしたものに言語で切り込み、
思考の言語化を、
言語でうながすことが時々ある。
ここはハッキリしてますよね、
なので言語化しておきます、
たぶんこの辺はこの言葉で言えると思うので、
ここも言語化を先にしておきます、
あとは残りを言語でつないでください、
と、
手が思考を先回りするような感覚のときだ。
手が思考を連れてくるというか、
手癖が先行するというか、
そういう感覚の時だ。
この時は、難しいことを考えていたり、
世の中にないことを考えていたりする時が多いかも知れない。
なので、書き直すことも結構ある気がする。
なので、言語化速度自体が思考速度を超えることは、
最終的にはないけど、
一部の段階で言語先行になってることが多い、
みたいな感じ。
書き直すことが多いのは、
まず手癖でやってみて、
「そうじゃない」と思考側に言わせるための、
ノックである時も多い。
普通は手癖でこう書くけど、
考えてることはそうじゃないよね?
と思考側を詰めるときにやるっぽい。
これは、具体になってないものを、
具体化する時の方法論かも知れない。
薙刀式は、
このことを大変やりやすい配列だと思う。
思考のパーツパーツは話題の語であるが、
それらをつなぎ合わせる、繋ぎの語が打ちやすいからである。
なので、かき混ぜやすく、つなぎ合わせやすく、
切り離しやすい(編集モードで)、
感覚をもって、
思考を一次元の言語に編纂して行きやすい感覚がある。
少なくともqwertyでは、その境地にはいけなかった。
手間の多さが大変だからね。
新下駄や飛鳥やその他の配列では行けるのだろうか、
相性というのがあるのか、わからない。
そもそも思考形式、言語化形式すら、
人によって異なるため、
このやり方で思考と文章を書いてる人は、
少ない可能性もある。
僕は手書きと異なる、
デジタルの入力法にいまだに違和感を抱えるがために、
「どう違うの?」
をひたすら内観してきた。
ここまで内面を観察した人の話はあまり聞かないため、
そんなにみんな観察してないのでは、
とすら考える。
脳内発声のある人の思考はどうなんだろ?
声になる前の思考は存在するのかなあ。
手から音が出るような感覚なのかしら。
(めんめんつさんはキーが順に光るので取りに行く、
という感覚を書いていた)
手の音が思考に先行するときはあるんだろうか。
そうじゃない人はどういう思考と文字書きをしてるんだろう?
興味は尽きない。
少なくとも、
薙刀式は僕のスタイルの人には合うはず。
そして同一でなくとも、
使いやすいという人は多いので、
思考スタイルと配列がジャストでなくてもいいのかも知れない。
2023年08月26日
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