2023年10月18日

ハッピーエンドへの準備

いきなり、突然、ハッピーエンドにはならない。
ずっと前からやってきたことがハッピーエンドにつながるものである。


世界は原因と結果でできている。
結果は原因から生まれる。
なので、
ハッピーエンドというものは、その大きさによるが、
原因と因果がはっきりしているものである。

現実にはそうではないパターンもあるが、
少なくとも物語の中では、
説明のつくハッピーエンドになる。

なぜなら、
説明のつかないハッピーエンドはもやもやするからだ。

それまでに前兆がないのに、
いきなりラッキーでハッピーエンドになる場合を、
ご都合主義という。
それは変だよ、と誰もが思う。

それまでに登場していないのに、
急に主人公より能力の大きなものが、
いきなり勝利をかっさらっていくのを、
デウスエクスマキナという。
これも変だと誰もが思う。

これらは、これまでの歴史の中で、
変だと思うパターンを抽出してきたものである。
ストーリーを思いつかない作者がやりがちな手段のパターンであり、
結果うまくいかなかったものたちだ。

突然、何の前触れもなく成功するのは、
全然面白くないストーリーなのだ。
(もちろん、ずっと努力してきて、
成功率が0%に近い状態のものから、
成功率50%にまで上げてきて、
最後は神頼みだ、となるパターンもある。
それはその点だけの場面ではなく、
線で成功までを描いているからセーフ)

つまり、
成功は線で描かないとつまらないということだ。
この成功はこれが原因である、
と俯瞰して理解できる何かが、
成功の前に必要だということだ。
努力かも知れないし、機転かも知れないし、
誰かのおかげかも知れない。
(そして他人が解決してしまっては主人公ではないので、
その他人の協力はかつて主人公が何かしてあげたことの恩返しになっている、
ということで、理屈をつけることが多い)

ああ、こういう理屈で、成功したんだ、
と分るのが一番気持ちいい、ということである。

ラブストーリーは特に難しくて、
なぜヒロインが主人公に惚れたのか、
ちゃんと描かないと気持ち悪いものになる。
現実には、なんとなくとか、
いつの間にか惚れてました、
なんてことがあるものだが、
すくなくとも物語の中では、好きになった理由が明確である必要がある。
そうでなければ、ご都合主義に見えるからだ。

リアルとフィクションは、
こういうところでも違ったりする。
フィクションは、
ハッピーエンドに理屈がきちんとつくものである、
という風にも定義できるかもしれないね。


逆から考えよう。
ハッピーエンドにしたいとき、
その理由になる場面がないとしよう。

だとしたら、
「なぜ成功したか?」を問い、
「〇〇〇だったから」だと答えられるとする。
じゃあ、その〇〇〇に当たる場面を、
事前に描いておけばよい、ということだ。
前のどこかの場面に挿入してもいいし、
前のどこかの場面を〇〇〇になるように書き換えても良い。
いずれにせよ、リライトすることで、
(たとえ多少無理があっても)
ハッピーエンドに理屈を通すことが可能になる。


成功には理由がある。
その理由にはさらに布石がある。
その布石にはさらに布石があり……
と線でつながっていることが望ましい。

単に一段階だけだと、
ハッピーエンドは予測できてしまうからだ。

物語はハッピーエンドで終わるのは分っているけれど、
そうじゃないかもしれない、と楽しみたいのが人間というものだ。
「ひょっとしたらうまく行かないかもしれない」と思いたいんだよね。
ドキドキしたいわけ。

だから、
簡単にはいかない、一筋縄ではいかない、
何段階も必要なものが、
面白く見られるものになると思う。

AゆえにB、おしまい、ではつまらないのだ。
AゆえにB、BゆえにC、CゆえにD……
とつながっていて、最後にハッピーエンドになるのが、
理想ということである。


さて、
その因果の段階があるとして、
それらを、ハッピーエンドの準備と呼ぶことにしよう。

物語中で、
ハッピーエンドの準備をしてるなこれ、
と悟られるのは準備が下手なほうだと思う。
もちろん、
「これは準備ですよ、みなさん楽しみにしていてください」
というほのめかしが効果的なこともある。
「やっぱりこれが最後に効いたかー! そうだと思ったんだよなー!」
ってどや顔をさせてあげるのも、
観客とのコミュニケーションということだ。

先がまったく読めないのも面白いし、
先が読めて、期待通りになって気持ちいいものも、
面白いというわけ。

それまでにどう引き付けられているかで、
あるいは好みで、決まるかもしれない。


ということで、ハッピーエンドの準備はしているか?
していないならば、
ご都合主義の可能性が高い。

これとこれとこれがこうなって、
それとそれとそうなったから、ハッピーエンドになったのだ、
と解説できるくらいには、
その場面をつなげていくべきだ。

ラッキーや他人に、
ハッピーエンドを助けてもらうストーリーはつまらない。
自ら成功を引き寄せて、
そしてものにしたやつの話のほうが、
絶対面白い。
そしてそのカタルシスこそが、
物語で一番おもしろいカタルシスだと、
僕は思う。

つまり、物語とは、
成功のカタルシスを積み上げて楽しむ娯楽である。


それさえあれば、
それがとても質の高いカタルシスであれば、
どんなに途中がつまらなくても、
そうだったのかー!と納得すれば、
そのつまらなさは帳消しになるよ。
内田けんじの「運命じゃない人」なんて、
まさにそういう典型だよね。
でもその詰まらないところも、
面白くするに越したことはないけど。

ハッピーエンドがきちんと納得いくならば、
それだけでそのストーリーは成功といってもよいくらいだ。
posted by おおおかとしひこ at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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