これらを同一視することは、評論の思考停止になってしまう。
単純に考えれば、
出来がよいものは、愛するべきで、売れる。
出来がよくないものは、愛せないし売れないし、(裏)、
売れないものは、出来が良くなくて愛せない(逆)。
しかし、そんな論理的な関係はない、
と思ったほうがよい。
出来がよくなくても愛せたり、売れたり、
出来がよくても、売れないが愛せたり、
出来がよくて売れるが愛せなかったり、
愛せるが、出来もよくないし売れないこともある。
売れたか売れなかったかは結果であり、
愛せるか愛せないかは主観であり、
出来がよいかよくないかは客観である。
客観と主観と結果が一致すれば幸せだが、
そうじゃないことのほうが現実では多い。
作品の「おもしろい/おもしろくない」や、
「よい/わるい」を語るときに、
これらを混同して議論するべきではない。
僕は基本的に出来が良いか良くないかで語っている。
しかし、
主観的に好きな作品を貶められ、傷ついたり腹立つ人がいる。
主観的に嫌いな作品を褒められて不快な人もいる。
主観的に好きなものを褒められてうれしい人もいれば、
主観的に嫌いなものをけなされてヨシと思う人もいる。
主観と客観は分けるべきだ。
興行的な成功は、
期待値やパワープレイにも左右され、時流にも左右される。
他に何があったかという環境の影響も強い。
なので、客観、主観とはまた別の結果になることもある。
比例するのが望ましいが、そうなるとは限らない。
その確率も変動する。
つまり、8通りある。
評価して、愛せて、売れたもの。
評価して、愛せるが、売れなかったもの。
評価して、愛せないが、売れたもの。
評価したが、愛せず、売れなかったもの。
評価しないが、愛せて、売れたもの。
評価しないが、愛せて、しかし売れなかったもの。
評価せず、愛せず、しかし売れたもの。
評価せず、愛せず、売れなかったもの。
この8通りになりえるのに、
評価して、愛せて、売れるものと、
評価しないで、愛せず、売れなかったもの、
の2通りに世の中を見ようとするから、
認識の齟齬が生まれ、議論がすれ違う。
客観的評価は主観的評価とは別軸で、
それとまた興行的結果も別軸だ。
愛して評価するものが売れなかったことが怖い、
つまり認知的不協和が起こるから、
まず売れたものを愛する、
というおかしな主観を決める人が、
一定数いるくらいだ。
それほど、この8通りのことを考えることが、
怖くて、頭の中に展開できないのだろう。
まあそれはそれとして、
僕はこの8通りについて考えていく。
敗北の美学などという言葉がある。
敗北するほうが美しく、魅力的であることがたまにある。
たとえばドラマの壬生は負けるほどに魅力を増したと思う。
それは、人生は勝利ばかりではないからで、
おそらく敗北のほうが多いからだ。
そこに描かれる本音のほうが心に刺さることがあることもあるわけだ。
結果だけを言えば、勝利する人にこそ魅力があるのだが、
そうとは限らない、という例だね。
世の中、何が勝ちで何が負けかはわからない。
興行成績だけが勝ち負けではないだろう。
ただ歴史に残らずに、良いものが埋もれていくのはもったいないよな。
だから、評論家はもっといいものを紹介するべきだ。
それを見たことのない人に、ネタバレをうまく避けながら、
本質的にうまく予告してあげることだ。
僕は第一ターニングポイントまでは、
予告にしてもいいと考えている。
なんなら、第二幕のお楽しみポイントも、
わりとばらしてもよいと思う。
クライマックスの根幹に関わる所以外のお楽しみポイントもばらしてもいいと思うよ。
それを鑑賞する価値があるか、ということを事前にうまく予告できたら、
それが評価に値する、ないし、愛せる、
ということを表現できるはずだからね。
あなたの書いた物語は、
評価できるか?
愛せるか?
売れるか?
プロデューサーは売れる/売れないが、判断の第一に来る。
評論家や好きな人は評価できる/できないが、判断の第一に来る。
浮動票は、愛せる/愛せないが判断の第一に来るかもね。
自分の書いたものを正しく見よう。
3つの軸で、8通りの解釈があり得るわけだ。
評価もできず、愛せず、売れなさそうなら、
捨ててしまえ。失敗作だ。
どれかが+ポイントになっているなら、
他も+にできないか、あるいは+をもっと+にできないか、
考えるといいよ。
ある時「女子高生だったらなんでも売れる」とか、
「猫が出てればなんでも回る」とか言っている人がいたな。
どこ行ったんだろうね。
そういう馬鹿はすぐにいなくなるよ。
2023年10月19日
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