は異なる。それを意識することだ。
書く側にとってのストーリーとは、
焦点で引き付け続けながら、
構造を順番に披露して、各キャラクターの行動と動機を管理して、
前振りをしたものを回収し続け、
ターニングポイントでうまく向かう先を変えて、
最終的にテーマに落としきるものである。
しかし見る側にとってのストーリーとは、
状況やキャラクターの心情に夢中になっているうちに、
いつの間にかカタルシスになっているものだ。
だから、
見る側の人間がいきなりストーリーを書いてもできない。
見る側の人間がストーリー分析をしようとてもできない。
書く側の人間は、つい見る側の夢中の気持ちを忘れてしまう。
書く側の人間が、名作を分析しようとしても、
見る側になってしまい、分析を忘れてしまう。
書く側の人間が、書けなくて困っているとき、
見る側の気持ちで考えてしまっていることが多い。
などの現象が起こると考える。
書く側と見る側では、まったく事情が違っていて、
それが素人と玄人の差になると思う。
これは、何もストーリーだけではなく、
専門的な何かが必要なジャンルは全てそうだと思う。
しかし医療や弁護士など、
専門家たちだけで話が通じることを、
ストーリーは求めていない。
専門家だけが見るストーリーというのはなくて、
ストーリーというのは一般の人が見るものである。
だから、素人的な見方が大事だし、
その素人的な見方をどうコントロールするかについて、
玄人は詳しくなくてはならない。
両方を行き来できるか、ということなのだ。
プロがプロにしかわからないことを、
プロ同士で話す場合はよいのだが、
素人が混ざっている場合、
その話し方がよいかは考えるべきだろう。
なにせストーリーというのは「悟られてはならない」
という大目標があるからね。
悟っていない素人と、構造を把握してすべてを悟っている玄人には、
かなりの開きがあると考えたほうがよい。
そして、書く側になるには、
見る側の体験+どれだけ書いてきたか、
が関係している。
あるいは、書いたものを見た経験や、
書きなおしたものを見た経験なども含まれるだろう。
それを、見る側から見る経験も必要だ。
たぶん書く側の人間は、
医療従事者より難しい。
医療のことは「専門家がいうんだから正しいのだろう」
というコンセンサスがあるが、
ストーリーのことは「素人はこう見る」という客観がなかなかなくて、
「私はこう見た」しかないからだ。
なので、
ストーリーに関する議論は混乱しがち。
立場が明確でない議論になるからね。
そもそも「リライトしすぎて、初見の人がこれをどう見るか分らない」
なんて半端なプロがいるくらいだぜ。
そんなの書く側の人間として失格だ。
前が見えていないドライバーと同じだ。
だが、それがよくあることくらいには、
書く側と見る側のやっていることは、かけ離れているのだ。
まあ、国家試験のないものは、
どうしてもそういうことが出てくるだろう。
どういう技能があれば網羅できるかも分かっていないし。
書く側にとってのストーリーと、
見る側にとってのストーリーは違う。
それを常に意識することだ。
今、書く側として意見を持ち、判断しているのか、
今、見る側として意見を持ち、判断しているのか、
自覚的になろう。
そして出来るだけ、自覚的に切り替えられるようになろう。
二つの人格が必要で、
しかもその二つの人格は自覚的に通信できないといけないね。
(多くの多重人格は、互いに通信できないことが多いそうだ)
あなたがストーリーを書くことがうまくいかないのは、
この、書く側の能力が足りないか、
見る側の能力が足りないか、
切替と通信がうまくいっていないかの、
どれかだろう。
2023年10月21日
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