2023年10月21日

書く側にとってと、見る側にとってのもの

は異なる。それを意識することだ。


書く側にとってのストーリーとは、
焦点で引き付け続けながら、
構造を順番に披露して、各キャラクターの行動と動機を管理して、
前振りをしたものを回収し続け、
ターニングポイントでうまく向かう先を変えて、
最終的にテーマに落としきるものである。

しかし見る側にとってのストーリーとは、
状況やキャラクターの心情に夢中になっているうちに、
いつの間にかカタルシスになっているものだ。


だから、
見る側の人間がいきなりストーリーを書いてもできない。
見る側の人間がストーリー分析をしようとてもできない。

書く側の人間は、つい見る側の夢中の気持ちを忘れてしまう。
書く側の人間が、名作を分析しようとしても、
見る側になってしまい、分析を忘れてしまう。

書く側の人間が、書けなくて困っているとき、
見る側の気持ちで考えてしまっていることが多い。

などの現象が起こると考える。


書く側と見る側では、まったく事情が違っていて、
それが素人と玄人の差になると思う。

これは、何もストーリーだけではなく、
専門的な何かが必要なジャンルは全てそうだと思う。

しかし医療や弁護士など、
専門家たちだけで話が通じることを、
ストーリーは求めていない。
専門家だけが見るストーリーというのはなくて、
ストーリーというのは一般の人が見るものである。

だから、素人的な見方が大事だし、
その素人的な見方をどうコントロールするかについて、
玄人は詳しくなくてはならない。

両方を行き来できるか、ということなのだ。


プロがプロにしかわからないことを、
プロ同士で話す場合はよいのだが、
素人が混ざっている場合、
その話し方がよいかは考えるべきだろう。
なにせストーリーというのは「悟られてはならない」
という大目標があるからね。
悟っていない素人と、構造を把握してすべてを悟っている玄人には、
かなりの開きがあると考えたほうがよい。


そして、書く側になるには、
見る側の体験+どれだけ書いてきたか、
が関係している。
あるいは、書いたものを見た経験や、
書きなおしたものを見た経験なども含まれるだろう。

それを、見る側から見る経験も必要だ。

たぶん書く側の人間は、
医療従事者より難しい。
医療のことは「専門家がいうんだから正しいのだろう」
というコンセンサスがあるが、
ストーリーのことは「素人はこう見る」という客観がなかなかなくて、
「私はこう見た」しかないからだ。
なので、
ストーリーに関する議論は混乱しがち。
立場が明確でない議論になるからね。


そもそも「リライトしすぎて、初見の人がこれをどう見るか分らない」
なんて半端なプロがいるくらいだぜ。
そんなの書く側の人間として失格だ。
前が見えていないドライバーと同じだ。
だが、それがよくあることくらいには、
書く側と見る側のやっていることは、かけ離れているのだ。

まあ、国家試験のないものは、
どうしてもそういうことが出てくるだろう。
どういう技能があれば網羅できるかも分かっていないし。


書く側にとってのストーリーと、
見る側にとってのストーリーは違う。
それを常に意識することだ。
今、書く側として意見を持ち、判断しているのか、
今、見る側として意見を持ち、判断しているのか、
自覚的になろう。
そして出来るだけ、自覚的に切り替えられるようになろう。

二つの人格が必要で、
しかもその二つの人格は自覚的に通信できないといけないね。
(多くの多重人格は、互いに通信できないことが多いそうだ)

あなたがストーリーを書くことがうまくいかないのは、
この、書く側の能力が足りないか、
見る側の能力が足りないか、
切替と通信がうまくいっていないかの、
どれかだろう。
posted by おおおかとしひこ at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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