映画というだけで気負いすぎてないか?
もちろん、
自分の作るものであるから、
そこに思いを込めたり、
徹底的に作り込んだり、
愛着を感じるのは当然だ。
これまで果たせなかった何かを、
それで果たしたいという思いもあろう。
でもさ、
どんなものであれ、
所詮は「通り過ぎる映画の一本」なんだよね。
僕は映画は娯楽の最高峰だと思ってるけど、
所詮それも「たくさん通り過ぎる、
娯楽の中の一本」だ。
娯楽ジャンルはコロナのとき、
不要不急の何かに入れられたよね。
世間から見たらそんなもんなんだ。
その落差をきちんと把握しよう。
あなたの人生はかけがえがなく、
必死で生きてるかも知れないが、
渋谷のスクランブル交差点にいけば、
そんな人間たちがゴミのようにたくさんいることを、
実感するべきだ。
この猛烈にたくさんの人々が、
全員かけがいのない、大切な人生を送っているはずだけど、
そんなもの側から見たら、
ゴミの群れなのだ。
この、主客の切り替えをきちんとできるか?
が、作品を作れるかどうかの肝になる、
と僕は考えている。
あなたがどんなに血と涙と汗を流した作品だろうと、
ゴミの中の一本であり、
週に何本も公開される映画の一本に過ぎず、
その中でおもしろいおもしろくないと言われて、
次の週には別の何かに飛びついて…
のループの中の一本に過ぎないということだ。
だから入れ込むな、という警告をしようとはしていない。
入れ込み、本気でやらないと、
面白くならない。
ところが、
それと、適当に作った力の抜けた場つなぎの何かと、
並べられて渋谷のスクランブル交差点に、
放り出されるぞ、ということである。
そうだとしても、
これは他と違うたしかな何かがあり、
まったく他と違う素敵で誰かに伝えたくなる価値があり、
人類の新しい宝になるべきだ、
ということである。
ただ目立ったり、ただかすめ取ろうとするやつは、
ゴミの中で消えていくだけだ。
僕はそんなことを自覚するために、
時々渋谷のスクランブル交差点に行くことがある。
別に渋谷でなくてもいいんだけど、
人混みがゴミのようになってるところがいい。
ここに脚本をそっと置く。
誰かが拾い、読み始める。
夢中になれば読み続けるが、
そうじゃないものは捨てられる。
捨てられたものを誰かが拾い、
また読み始める。
そんな想像をすることがある。
僕のホンだけじゃなくて、
沢山のホンがゴミのように落ちている想像もする。
その中でなぜそれを拾ったのか、
なぜそれを拾わず通り過ぎたのかを、
想像することがある。
そして、
もしそれに夢中になり、
とても満足して読み終えたら、
「オイこれやべえぞ」って他の人に読ませたくなるのは、
どういうものだろう?と。
誰か特定の人用の、
マニアックなものならば拾われやすい。
でもそれだと範囲が狭くて、
集まる金も少なくて、内容で無理をしなきゃならない。
そうではなくて、
このゴミのような人の中で、
誰もが拾いやすくするにはどうすればいいか?
誰もを夢中にさせて、
思わずじっくり見入るものにするにはどうすればいいか?
そして誰もを満足させて、
誰でもいいからこれやべえぞ、
となるものはどういうものか?
について考える。
特定の人ではなくて、
なるべく多くの人が、だ。
それはキャッチーなコンセプトで、
マニアックなキャッチーさではなくメジャーなキャッチーで、
滅多にない、日常を離れた、
聞いたこともない特殊な話なのだが、
誰もが感情移入できる一般性があり、
誰もがそうだとうなづける展開になり、
新しいテーマに帰着して、
人生が変わるようなものだと考えている。
そんなものがあるかどうかは分からない。
だけど、
数々の名作たちは、
それをやってきたものたちだ。
そんなもののためには、
自分の思い入れなどちっぽけなものにすぎない、
と俯瞰できるかどうかだよね。
だからある意味サービス業だ。
自分を殺して一般性を高めるのだ。
だけど本当に人の心を捉えるのは、
「誰にでも同じように一般的にサービスしていること」
ではないよね。
確固たるオリジナルこそ、
みんなが欲しがってるものだ。
つまりあなたのつくるものは、
スタアにならなければならない。
強烈な個性と真似できないものがありながら
(モノマネ芸人が出てくることは名誉である)、
なおかつ全ての人に好かれる間口を持っていることである。
つまりあなたの脚本は、
ゴミのような人の中から、
ダイヤのように発見されなければならない。
最初に手に取られるように。
その人が捨てても、
別の人が手に取るように。
そのうち、手に取らせなくても、
「オイこれヤベエぞ」が広まっていくように。
その核になるのが、
シナリオの力である。
なぜ、様々な人が、
そのように拾い、
そのように広めるのか?
それは、その人がゴミではないからだ。
かけがえのない人生を送っていて、
必死で生きてるからだ。
だからほんとうにかけがえのない作品に出会ったときに、
涙を流すのだ。
渋谷スクランブル交差点を歩く人たちは、
ゴミのように沢山いるけれど、
一人一人の人生を見ると、
ゴミではないわけ。かけがえのない一生を送っているわけ。
そんな、
自分と、観客と、
俯瞰と人間一人を、
往復できる力こそが、
作品を作るときに必要だ。
作者が頑張ってるだけでは、
他の人はついてこない。
全員をついて来れるようにサービス業になると、
芯がなくなる。
その芯こそ、自分の血と汗の魂が必要。
どちらもやるべきで、
どちらかが欠けていては作品として不完全だ。
あなた自身がスタアであるかどうかは関係ない。
あなたの作品がスタアになりなさい。
(逆にスタアとは自分を商品にしてしまった人のこと)
そしてそれは、
所詮映画の一本に過ぎないぜ。
それは映画だから尊いわけじゃない。
それはその作品だから尊いにすぎない。
人は尊いものを集めたがるだけで、
映画を集めたがるわけではない。
2023年10月22日
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