こういうものをつくってみた。
これは100話ものの構成だけど、
一行をシーンにすれば、映画脚本でも応用できよう。
我々の書いているものは、
一次元のものである。
空間は三次元的で、
人間関係や事件はn次元的で、
行動や結果もn次元的であろう。
しかしそれを「語る」
という行為、時間軸は一次元だ。
時間の特徴は、
「それが始まったら止まらず、
前と後がずっとつながり、
終わりになったら終わる」
ということである。
そして、
「時間そのものに区切りはない」ことだ。
実はこれを紙(や静止メディア)上で表現することは、
とても難しい。
こんな風に、
二次元的に配置したり、
線を入れてブロック分けをついしてしまいがちだ。
「文字が紙に入らないから、
便宜上の書き方である」ことは、
誰もが承知している。
やむなくこんなふうに表記しているが、
ほんとは一次元で繋がってるんだけどさ、
という便宜であると。
しかし、ついつい、
端っこにいるだけで意味があると勘違いしたりして、
「この仮想の四角のフレームを構成するものは重要パーツである」
「改行に意味がある」
などと、作者が意味をつけはじめてしまう危険があるぜ、
ということを言おうとしている。
この二次元的な整理や、
線を引いたブロック分けは、
あくまで「作者の理解、ないし都合を示したもの」
にすぎないのである。
一方現実の時間というものは、
前から尻に一直線につながっていて、
「ブロック分けの線引きはない」ものである。
作者の都合など時間は許してくれないのだ。
だから、その「ほんとの時間体験」になるように、
ずーっと頭から尻まで、
ただつなげたものを作ってみたわけ。
作者の恣意的なブロック分けを無意識に避けるための装置、
というべきか。
ざっくりいうと巻物に似ている。
頭から尻まで密に詰まって繋がって、
かつブロックが分かれないものは、
つまりは巻物だったのか。
古代に戻った。
古代だから遅れていると考えるのは、
人間の本質について暗いと思う。
古代とは、人間と技術が本質的な一対一対応をしていた時代だ。
だからより本質的になりやすい。
たとえば歌や踊りや武術は、古代の技術である。
むしろ古代をマスターしてないやつが最新技術なんてマスターできねえだろ。
これを頭から通していくことで、
どこで退屈するか、
どこで刺激に慣れてしまうか、
どこで休憩を取らせるべきか、
どこで刺激を変えるべきか、
などについて体感することができる。
区切りのない、
連続した時間をシミュレーションできるわけ。
この、区切りもない、
二次元的にも整理されていない、
ただの一次元のつながった時間を体験することで、
作者の意図したブロックわけや、
全体の構造を「解釈できる」、
すなわち何も知らない観客が頭の中で再構築できるならば、
この一次元の体験は成功している、
と考えることができる。
これは全部貼ってはがせるタイプのノリで貼られていて、
横移動可能になっている。
これによって時間の流れを試せるようになっている。
実物は1mぐらいあるものだ。
アナログ紙工作のいいところだね。
ハサミとノリで貼り合わせるだけで、
こういうものを作ろうと思ったらすぐできる。
手間は数時間かかるが、
デジタルでこれは作れない。
俯瞰できる方法がないからだ。
なんならこの巻物は、
目の前を歩いたり戻ったりして、
「体感としての時間経験」をつくることができる。
そして、
いつでも俯瞰したり砂被り席までいったりの、
視点の往復もすぐできる、
とてもすぐれた道具だ。
べつに著作権などないので、
真似してつくられたい。
「時間体験一次元装置」
として、巻物はとてもすぐれている。
始まりと終わりしかなく、
間はすべて等価に直結している構造だ。
時間は等価だからこそ、その等価を意味で超えるわけで、
それが実現できてるかを頭の中で再構築しながら体験するのである。
これでリライトの問題点をいくつか発見できたので、
使える道具であることは保証する。
ただつくるのがめっちゃめんどくさい。笑
2023年08月31日
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