2023年09月09日

「何も起こらない」という文学

というジャンルがあるんじゃないか、
くらいの勢いだ。


たとえば西野カナの「会いたくて震える」。
会いたい(動機)なら、
会いに行ったり(行動)、
分れると言ったり(行動)、
他の人と浮気してさみしさを紛らわせたり(行動)、
するのが、
三人称文学というものである。

しかし、会いたくて震えているだけで何もしない。
三人称的にはね。
だが一人称の中では、
激しく感情が渦巻き、世界をつくっているわけだ。

この、一人称の人の心の中を描くのがメインなのが、
一人称文学ともいえる。
その結果、三人称的な状況が動くような行動を起こす場合もあるが、
多くは「何もしない」「何も起こらない」
という結果になるジャンルが、たしかにある気がする。

たとえば少女漫画における内面のセリフはとても豊かだが、
実際の行動だけをトレースすると何もしてないことは多い。
「思うだけでほとんど何もしない」
というジャンルがある。


「落下する夕方」テンプレでも議論したが、
「落下する夕方」という映画の中の、
臆病な私をさんざん連れまわして、別世界へ連れていく子が現れて、
主人公はとくに何もせず、
最後に一歩踏み出して終わる、
というテンプレのことをそう呼んだ。

同名小説が原作らしいが、
おそらく原作は一人称で、
主人公の心の中の渦巻きがメインなのだろう。
会いたくて震えてたり、汽車を待っていただけなのだろう。

具体的には何もせず、
心の中だけで渦巻き、
最終的にちょっとだけ簡単な行動に一歩踏み出して終わる、
という形式が、「落下する夕方」テンプレだ。
これはメアリースーの典型として僕は定義した。

メアリースーは甘えているとか、
周りが見えていない、などというが、
実際のところ、
甘えているかどうかよりも、
作者が一人称を見ているか、三人称を見ているか、
という違いがあるように思える。

つまり、
その主人公の心の中をメインで描きたいのか、
主人公の行動の結果、周囲が変化して、
そのリアクションが主人公に浴びせられ、
主人公はまた行動して……という連鎖を描きたいのか、
という二択だということだ。

前者の場合、メインは「何もしない主人公の心の中」が主な舞台となってしまうために、
一人称でひたすら繊細な心を描くことになるだろう。
後者だと、アクションとリアクションがメインの、
映画型三人称になるだろう。
なぜなら映画の中に一人称セリフがないからだ。

なお心の中をしゃべりまくる奇異な作品に、
「私の優しくない先輩」という、
アニメ監督がやった、川島海荷の心の中を、
ひたすらナレーションする映画がある。
感想としては、
「思ってるだけじゃなくてさっさと行動しろや」
と思ったな。
「理屈を捏ねてないで次をやれ」
と思ってしまう。
つまり、
「思っている間は時間停止している」
ように三人称から見える。


つまり、メアリースーは、
三人称でやらなければならない映画型シナリオに、
一人称型の「何もしない」文学をやろうとして、
寒いわけだ。

もし一人称型の「何もしない」文学をやりたいならば、
あなたはシナリオを書くべきではない。
小説を書くべきだ。
文学のジャンルが違うからだ。


一人称型の「何もしない」文学が、
僕は最高とは思わないが、
それなりにあるジャンルなので、
否定はしない。
だからそれをやりたければ、小説を書くべきだ。

シナリオは三人称である。
だからそれに適した文学のスタイルを選ぶべきで、
それには「何もしない」文学は合っていない、
というだけのことである。


三人称形式、シナリオ形式で描けるジャンルは、
すべての文学の範囲より狭い。
「何もしない」一人称文学は向いていない、
というだけのことである。

会いたくて震えることは出来ない。
会いたくて震えているだけで何もしない5分間を、
見てみようか。

   カナ、震える。
   カナ、震えが止まる。
   カナ、震える。
   カナ、窓の外を見る。
   カナ、震える。
カナ「会いたい……」

ほななんかせえや、
と突っ込んでしまいたくなるね。

しかしこの「傍目から見てよくわからない状態の心の中」
を豊かに、
このように思っていました、ということを詩的に書くのが歌である、
ということである。
私は悲しい、誰か分かって、みたいなメッセージがそこにあるわけだね。


一方三人称では、
何もしないやつは何もしていないのと同じだ。
(小泉構文)

だから勝手に震えてろ、ってことになってしまう。



「何もしなかった」という文学ジャンルは、
おそらく昔からたくさんあろう。
その心の中をうまく言葉に表すことを、
昔から人類はやってきた。

「うまく言葉に表すことができない」
という後悔を現実で抱えていて、
それを結晶化したのがそのジャンルであるともいえる。
「そうそう、そういう風に言いたかった」というやつだろう。

シナリオはそれではない。
それは肝に銘じておくことだ。
西野カナは映画化できない。
原理上できない。


あなたのシナリオは、
何もしない文学に属しているか?
このときの気持ちを描きたいのだ、
という欲望が出てきているか?

もちろん、三人称ストーリーでも、
気持ちを吐露したい場面はたくさんある。
そういう時は、
独り言か、だれかに吐露するしかない。
三人称だからね。
三人称でそれらを描いて問題ないならば、
三人称で書き続けることが可能だろう。

しかし三人称で描けないならば、
そもそもジャンル違いである可能性もあるぞ。

シナリオで書ける文学のジャンルを選びなさい。
「何もしない」文学は、出来ないからね。
posted by おおおかとしひこ at 05:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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