というジャンルがあるんじゃないか、
くらいの勢いだ。
たとえば西野カナの「会いたくて震える」。
会いたい(動機)なら、
会いに行ったり(行動)、
分れると言ったり(行動)、
他の人と浮気してさみしさを紛らわせたり(行動)、
するのが、
三人称文学というものである。
しかし、会いたくて震えているだけで何もしない。
三人称的にはね。
だが一人称の中では、
激しく感情が渦巻き、世界をつくっているわけだ。
この、一人称の人の心の中を描くのがメインなのが、
一人称文学ともいえる。
その結果、三人称的な状況が動くような行動を起こす場合もあるが、
多くは「何もしない」「何も起こらない」
という結果になるジャンルが、たしかにある気がする。
たとえば少女漫画における内面のセリフはとても豊かだが、
実際の行動だけをトレースすると何もしてないことは多い。
「思うだけでほとんど何もしない」
というジャンルがある。
「落下する夕方」テンプレでも議論したが、
「落下する夕方」という映画の中の、
臆病な私をさんざん連れまわして、別世界へ連れていく子が現れて、
主人公はとくに何もせず、
最後に一歩踏み出して終わる、
というテンプレのことをそう呼んだ。
同名小説が原作らしいが、
おそらく原作は一人称で、
主人公の心の中の渦巻きがメインなのだろう。
会いたくて震えてたり、汽車を待っていただけなのだろう。
具体的には何もせず、
心の中だけで渦巻き、
最終的にちょっとだけ簡単な行動に一歩踏み出して終わる、
という形式が、「落下する夕方」テンプレだ。
これはメアリースーの典型として僕は定義した。
メアリースーは甘えているとか、
周りが見えていない、などというが、
実際のところ、
甘えているかどうかよりも、
作者が一人称を見ているか、三人称を見ているか、
という違いがあるように思える。
つまり、
その主人公の心の中をメインで描きたいのか、
主人公の行動の結果、周囲が変化して、
そのリアクションが主人公に浴びせられ、
主人公はまた行動して……という連鎖を描きたいのか、
という二択だということだ。
前者の場合、メインは「何もしない主人公の心の中」が主な舞台となってしまうために、
一人称でひたすら繊細な心を描くことになるだろう。
後者だと、アクションとリアクションがメインの、
映画型三人称になるだろう。
なぜなら映画の中に一人称セリフがないからだ。
なお心の中をしゃべりまくる奇異な作品に、
「私の優しくない先輩」という、
アニメ監督がやった、川島海荷の心の中を、
ひたすらナレーションする映画がある。
感想としては、
「思ってるだけじゃなくてさっさと行動しろや」
と思ったな。
「理屈を捏ねてないで次をやれ」
と思ってしまう。
つまり、
「思っている間は時間停止している」
ように三人称から見える。
つまり、メアリースーは、
三人称でやらなければならない映画型シナリオに、
一人称型の「何もしない」文学をやろうとして、
寒いわけだ。
もし一人称型の「何もしない」文学をやりたいならば、
あなたはシナリオを書くべきではない。
小説を書くべきだ。
文学のジャンルが違うからだ。
一人称型の「何もしない」文学が、
僕は最高とは思わないが、
それなりにあるジャンルなので、
否定はしない。
だからそれをやりたければ、小説を書くべきだ。
シナリオは三人称である。
だからそれに適した文学のスタイルを選ぶべきで、
それには「何もしない」文学は合っていない、
というだけのことである。
三人称形式、シナリオ形式で描けるジャンルは、
すべての文学の範囲より狭い。
「何もしない」一人称文学は向いていない、
というだけのことである。
会いたくて震えることは出来ない。
会いたくて震えているだけで何もしない5分間を、
見てみようか。
カナ、震える。
カナ、震えが止まる。
カナ、震える。
カナ、窓の外を見る。
カナ、震える。
カナ「会いたい……」
ほななんかせえや、
と突っ込んでしまいたくなるね。
しかしこの「傍目から見てよくわからない状態の心の中」
を豊かに、
このように思っていました、ということを詩的に書くのが歌である、
ということである。
私は悲しい、誰か分かって、みたいなメッセージがそこにあるわけだね。
一方三人称では、
何もしないやつは何もしていないのと同じだ。
(小泉構文)
だから勝手に震えてろ、ってことになってしまう。
「何もしなかった」という文学ジャンルは、
おそらく昔からたくさんあろう。
その心の中をうまく言葉に表すことを、
昔から人類はやってきた。
「うまく言葉に表すことができない」
という後悔を現実で抱えていて、
それを結晶化したのがそのジャンルであるともいえる。
「そうそう、そういう風に言いたかった」というやつだろう。
シナリオはそれではない。
それは肝に銘じておくことだ。
西野カナは映画化できない。
原理上できない。
あなたのシナリオは、
何もしない文学に属しているか?
このときの気持ちを描きたいのだ、
という欲望が出てきているか?
もちろん、三人称ストーリーでも、
気持ちを吐露したい場面はたくさんある。
そういう時は、
独り言か、だれかに吐露するしかない。
三人称だからね。
三人称でそれらを描いて問題ないならば、
三人称で書き続けることが可能だろう。
しかし三人称で描けないならば、
そもそもジャンル違いである可能性もあるぞ。
シナリオで書ける文学のジャンルを選びなさい。
「何もしない」文学は、出来ないからね。
2023年09月09日
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