本屋に行こう。ツタヤに行こう。
タイトルが山ほど並んでてて、
何を手に取るか分からない状態で、
自分なら何を手に取るかを考えるために、
人は通りすがりに何を手に取るか考えるために。
そしたら、タイトルは動線だよな。
中身への動線になってないと、
手に取る気がしないよな。
誤ったタイトルの付け方は、
「シンプルに本質を示す」だろう。
「告白」とか言われてもあんまり響かないよね。
それが響くのは原作の存在や、
原作者が有名という、他のファクターによるものである。
タイトルそのものが響いているわけではない。
仮に「モテない人のための100の方法」が横に並んでたら、
「告白」よりも手に取る人が多いと思う。
そういうことだ。
じゃあ嘘のタイトルをつければいいかというと、
それはタイトル詐欺なので一回しか通用しない。
安定して良いタイトルだという評価は得られない。
なぜ人は「シンプルに本質を示す」タイトルをつけてしまうのか?
多分以下のような心理からだ。
私は○○という素晴らしいものをつくった、
是非これを人に見てもらいたい、
よし、その魅力を表現しよう。
AでBでCなのだ、
いやもっと書いたな、DでEでFだぞ、
これを全部タイトルにぎゅっと詰め込もう。
ABCのDEF。
うーんデコりすぎたな。
ごっそりへらそう。
X。
ああ、いい。情報量が極限まで削ぎ落とされた、
○○の本質をうまく言い表している。
これでいきます。私は「X」を書きました。
これは、あなたと作品の会話しかしていないことに気づかれたい。
つまり閉じている。
作品を知ってる人と作品の間で閉じている。
開いているとは、
「それを知らない人にもなんとなく察せられるもの」
「それを知らない人が期待するもの」
である。
作者と作品という本質的なところに、
それを知らない大量の人がやってくる、
その架け橋がタイトルだ。
だからタイトルは狭き門ではなく、
広き門であるべきで、
そして魅力的で、
この先の本質をチラ見せしているべきものである。
この橋を渡れば得られそうなものを、
うまく見せておくべきだ。
つまり結論をネタバレしないように見せるのだ。
100%の本質を示せない。
15%、20%の本質で人を引くのである。
これは大変難しく、
だから良いタイトルというのはとても少ない。
それは、
本屋に並ぶ膨大なタイトルを見ればわかる。
僕、本屋も図書館も嫌いなんだよね。
何が良さそうで何がゴミか、全く区別がつかないんだよ。
この中に宝物があるんだろうけど、
見つかりそうにないし、
どういうものがその宝なのかわからないので、
キーッてなって、全部燃やしたくなるんだよ。
アレクサンドリア図書館を燃やした人も、
こういう気持ちだったのかもね。
何千冊の本は、僕に手を伸ばしていない。
閉じこもってて、来るなと言ってるように思える。
まるで転校初日のクラスのようだ。
僕が図書館を嫌いな理由はまさにそこ。
誰とも友達になれそうにない絶望。
そこに、来てこっちにおいで、
遊んでいいよ、こっちには滑り台があるぞ、
と言ってくれる人がいたら、フラッと行くだろう。
自分がほんとうに滑り台がしたいかどうかは置いといて、
「うん、今日一日黙って過ごすよりかは、
まあ滑り台も悪くないな」
と思うだろうからね。
「告白」よりも「モテない人のための100の方法」
を手に取るのは、
そうした心理からだ。
そもそも、あなたの書いた本質Xを、
真に必要として探し求めてる人はどれくらいいるの?
それを一生知らないまま死んでも、
多分そんなに困らない。
翻って、そもそもあなたの知識は、
絶対必要なものに限定されてなくて、
とてもたくさんの無駄知識で溢れてるはずだ。
だから、
「絶対必要な○○を探して得るぞ」
と思ってる人なんて全然いないんだよ。
そもそもそれをしたかったら、
検索してて、本屋で回遊することはないからね。
だからそうじゃなくて、
「お兄さんちょっと遊んでいきませんか」
と可愛い子が言ってくれるのが、
最上の客引きだと思うんだよね。
もしその子が可愛くて、
着いて行ったらババアが出てきたらタイトル詐欺。
仮にその子が本質的な好みじゃなかったとしても、
まあまあ楽しい時間が過ごせればそれでよいわけ。
それが娯楽だ。
で、たまーに娯楽の中に人生の本質が現れるような、
ものすごい真理があるから、
娯楽はやめられないんだよね。
そうして無駄知識が増えていくわけさ。
良いタイトルは、
良い客引きであるべきだ。
本質Xをソリッドに示したって、
そんなものを必要としてる人以外には、
全く響かない。
仮に世界で1万人必要としてるとしよう。
その1万人が見ればおしまいか?
でも1万人全員がXで見るとは限らない。
むしろ100万人が見るようなタイトルにして、
その中にこちらの本当に届けたい1万人がいればよし、
という風にしたほうが、
1万人に届くものにならないか?
マスコミュニケーションの本質はそれだ。
沢山の人に真に届けばよいが、
90%、99%の浮動層を相手にしながら、
10%、1%の真の客に届けることが、
大量生産品のやることである。
効率は悪いが、真の効率はよいのだ。
昔大塚家具のCMを担当したことがあったが、
どうしても「一枚板」を入れてくれと言われて1カット撮った。
そしたらそれが売れたらしい。
一枚1000万だぜ?
買いたい人もどこで買えばいいか分からなくて、
CMを偶然見かけて買いに来たんだって。
その1000万の売り上げのために、
1億(主に電波代)使うことは価値があるわけ。
じゃあ9000万はドブに捨てたのかというと、
それは短期的な目線に過ぎず、
長期的に大塚家具がいい感じに記憶に残ればそれでいいんだ。
どこかで家具を買おうと思った時に、
大塚家具を思い出すだろうから。
(もっとも、これをやったあとに分裂騒動が起きて、
「家具屋姫」なんて抜群のコピーが生まれてしまい、
このCMの効果はふっ飛んだろうが…)
だから、
タイトルは、広くて魅力的な動線である必要がある。
シンプルに本質を示そうなんて、
ちゃんちゃらおかしいわけだ。
閉じた宗教ならそれもよいが、
あなたはマスのコミュニケーションをしようとしている。
マスは30人以上と考えてさしつかえない。
クラス以上の規模のコミュニケーションは、
僕は全部マスコミュニケーションだと考える。
「人間一人一人と話し合えない人数」を、
その定義にしても良いと思う。
その人たちにとって動線になってるか?
門や廊下は掃き清めるべきだし、
入りやすくするべきだ。
途中で引き返す人もいるだろうけど、
来る人の方が多ければヨシである。
あなたが「よし、このタイトルは本質をシンプルに象徴できたぞ」
なんて思ってるならば、
そのタイトルはたぶん間違ってる。
「このタイトルは、
こういうことを期待した人を集めやすそうだ」
という評価が、タイトルをつくるときの基準だ。
もちろん、
「それでいて作品の本質を見事に表している」
が付随するべきで、
だからタイトルは、何重にも難しいのだ。
短いほうがタイトルとしては強いから、
技術で作れるものではないと思う。
ひらめきが来るまで、100でも200でも書き連ねよう。
今自作のタイトルを悩んでて、100を超えてまだ納得できない…
動線になってて、しかも本質。
とても難しい。
悩んで本屋に行って、「誰がこんなものを手に取りたくなるの?」
をずっと考えていた。
付帯情報(作者、歴史文脈、売れてる、賞取ったとか)
を知ってれば買うのかもだが、
何もなくて小説のタイトルだけで手に取ることって、
ほぼないんじゃない?
だから、フックになってるタイトルは、
それだけで勝てる。
だいぶ前になるが、
「竿竹屋はなぜ潰れないのか?」
と疑問系のやつはとてもよかった。小説ではないが。
「なんでやろ?」と思った瞬間手に取るからね。
それは一つの手法にすぎないけど。
今フックになることはなんだろう。
新しいフックはなんだろう。
それは、作品の本質への動線になるか?
その動線は、世間の他のフックより強いか?
「モテない人のための100の方法」より強い?
「竿竹屋は何故潰れないか?」よりも手に取る?
そんなことを考えながら、
タイトルを考えるべきだ。
2023年11月11日
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