2023年11月21日

あるものをとても価値があるように見せる

ことは、フィクションの上では簡単だ。


トレンディドラマでは、
恋が何よりも至上であったように思う。
バブルの香りもあって、
何しても楽しくて、
その中でもキラキラしたものに、
過剰に装飾していた背景もあろう。

だから、実態よりも価値があるように見せることは、
フィクションの中では可能だ。

トレンディドラマでは、戦争や景気や政治などの話題は現れない。
それと恋愛を切り離して考える。
それだけ平和な時代だったが、
湾岸戦争あたりがトレンディドラマの流行を歪めただろうか。
まあそれはそれとして、恋愛は別腹だしな、
になったかもだ。

少女漫画における恋愛至上主義も、
同様のものを感じる。
お前ら恋愛ばっかしてないで勉強しろ、
と先生の立場につい立ってしまいがち。笑
でも当時の年齢だとそんなことしか考えてなかったので、
ターゲティングとしてはただしいのか。


あるものを実態よりも価値あるように見せる、
とても極端なものはCMだ。
その商品サイコーという世界だからね。
それが世界を変えるほどの革命なんて、
早々はないのだが、
それは最高だという前提でCMはつくられる。

だから、ある時期から、
CMには冷めた目線が導入された。
そこまででもないやろ、という冷静さだ。
それがドキュメンタリーぽさを導入した。
作り込んだ世界ではなく、
ドキュメントっぽいほうが嘘がないのだと。
でもそのドキュメントさえ作り込みがあるとわかるし、
「カメラ回ってるからええこと言ったろ」と、
演者の側が気を遣った発言になってしまうというジレンマがあって、
結局は忖度の世界に成り下がってしまっている。
ほんとうのリアルなど、カメラでは撮れないのだ。

YouTuberの流行は、
プロが撮った映像ではないが、
アマチュアなりのおもしろさをアドリブで撮る、
そのリアルさが端緒であった。
しかし結局チームで作ってたりと、
プロが総がかりでやってることがだいぶわかってきて、
「ここにもリアルはないのか」と、
冷めてしまっている気がする。
「金がそこで発生するならば、
プロを呼んできたほうがいいよね」みたいになってるわけ。

つまり、プロは上手な嘘をつく芸の人、
アマチュアはリアルだけど下手な人、
みたいな色分けが出来てしまっている気がする。

AV女優もそうだろう。
アンアン言ってるプロは全部演技だ、
なんてなって、素人ものが流行る。
しかし素人はリアクションが薄く、
見ていて辛いものが多い。
リアルとはめったにいいシーンがないこと、
みたいなことに気づいてしまう。

だから編集があるんだけど、
取れ高が悪くて、このコストでこんなもんか、みたいな。
だったら最初からプロよんどけ、
しかしプロはリアルさが…
というジレンマのループになっている。

だからプロなんだけどリアルな瞬間を狙う、
しかしそのリアルさも準備された演技で…
みたいなおっかけっこが現在かな。



だったらいっそ、
大嘘の中で、リアルな感情を描けばいいと思うのさ。
やってる枠組み自体は全部嘘なんだけど、
この気持ちは全部リアルみたいな。
それはたとえばインド映画だね。

ただそれはファンタジーとか別枠になるかもしれない。


リアルではめったにいいことがないから、
必ずいいことになるように、
うまく問題を設定する的なやり方もある。

その一つの枠組みがデスゲームで、
これは必ずゴールがあることが保証されている枠組みなわけ。
だからリアルな感情が渦巻きながら、
ゲームを演じられるわけだ。

おそらく同じ構造で、
「演技を成功させる」という映画もつくれると思う。
演劇や舞台でいかにして嘘をつくかを、
リアルな感情でやればよい。
ああ、「カメラを止めるな!」も、そのジャンルか。
メタが入ってるわけだ。

ただそういうヒトカミしてる構造もだいぶ飽きてきたから、
別の枠組みが今必要とされていると考える。



特別にキラキラさせて価値がありますよ、
ということをしないで、
リアルに価値があることをやること。

しかしそれだけだと地味なので、
何か売りを一つ作るもの。
それが「嘘でしょ」と斜めに見られないもの。


かつてその要素は輸入に頼っていた。
海外の珍しくて新しいものがそれで、
その付加価値(ぼったくり)がバブルを支えていた。
地球が繋がってしまって、フラットになってしまった今、
ぼったくり価値のキラキラがなくなったぶん、
フィクションは苦境に立たされていると思う。

だからこんな時代に、
恋愛サイコー!なんてやってたら、
お前は馬鹿か、もう少し周りを見ろなんて言われてしまう。
難しい時代になったね。


あなたの信じる価値はなんだろう?
それを不必要に飾り立てて最高のものにしたとしよう。
それを腐す人が必ずカウンターとして現れる。

それをもぎゃふんと言わせられるかを考えてないと、
いまフィクションは簡単に「嘘っぽい」で潰せてしまう。
posted by おおおかとしひこ at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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