「社会的」の定義が曖昧だが、
とりあえず、
「そのストーリーの結果が、
個人一人だけでなく、
その社会の構成員にとってよくなること」
と定義しようか。
その社会は、最小二人だろう。
ラブストーリーで幸せになるエンドは、
相手も幸せにしているので社会的だ。
ただ誰かを殺して結婚したのだとしたら、
社会的ハッピーエンドではあるまい。
その二人の身勝手だと判断されるだろう。
ところが殺した人が悪人で、
殺したことによって誰か(できればたくさん)が、
救われるのならば、
これは社会的ハッピーエンドだといえる。
多くの物語で悪が成敗されるのは、
社会的だからだ。
これは、なにも物語だけでなく、
現実社会でも同様である。
勝手に一人だけ幸せになってる人には、
人はあまり興味がない。
焼き鳥屋でビール片手に幸せそうになってるオッサンは、
うむ、とは思うものの、
まあどうでもいいとなる。
しかしそのオッサンが誰かを助けて、
その結果勝利の晩餐で幸せになっているならば、
よし、とポイントがあがるものだ。
社会的ポイントとでもいうべきものがある、
ということを言おうとしている。
社会的ポイントが0(個人のもののみの場合)の、
ストーリーには人は興味がない。
1以上のものに興味が出てくる。
それは「価値がある」気がするからだ。
できれば1より2の方が良く、
3の方がもっと良い。
幸せは等量でなくともよい。
恩恵が少しある人から、すごい幸福になるまで、
バラバラでも構わない。
トータルでその社会が改善すれば、
それは社会ポイントを持っている。
あなたの主人公の活躍によって、
誰が幸福になったろう?
たった一人だけを幸せにしたのか?
それともみんなを幸福にしたのか?
前者だとしたら後者に変えてみることは可能か?
他の登場人物は、
主人公の行動の結果、少し人生が良くなっただろうか?
だとしたら、主人公の活躍には、
「意味があった」「価値があった」
ように見えると思う。
逆に「誰も幸せにならなかった」となれば、
その主人公の価値を下げることができる。
日本人の好きな奴は、
「周囲から疎まれ、誤解されているが、
実は社会を良くした、隠れたヒーローなのである」
というやつだ。
民族的伝統だろうか。
個人の幸福と、社会の幸福は、一致の必要はない。
さて、ようやく本題。
この「社会」を、あなたの属しているリアル社会と、
混同するなよ、ということを言おうとしている。
この物語は素晴らしい、
だからリアル社会が影響を受けるべきだ、
などのような主張である。
これは、物語の本質を分かっていない者の考えることだ。
物語とはフィクションである。
我々と似た社会の話ではあるが、
我々の社会の話ではない。
壁の向こうの別世界で起きたことを我々は「覗き見する」
ことしかできず、向こうの世界に影響を及ぼせない。
そして同様に、向こうの世界はこちらに出てこない。
つまり、「第四の壁がある」のである。
「この素晴らしい物語をもって、
社会に影響を与えよう」などと画策する者は、
第四の壁を知らない、
ストーリーの素人である。
ストーリーは常に、
現実社会との接点においては間接話法である。
フィクションの世界の結論は、
こっちのリアル社会ではこのように読める、
ということしか言えない。
それは、第四の壁を通過できないことと同じだ。
ストーリーは常に、
現実と関係ない、別の箱の中で完結する。
だけど我々は、
ストーリーの中の世界は、
我々の世界と同一の法則で動くと仮定している
(特に断りがあればそこは別扱いだが、
それ以外は断りがない限り同一法則だろうと思っている)
ので、
やはり、社会的にポイントがある物語を、
良いと思うだけのことである。
だから、
社会ポイントを上げる話を、
現実社会とは切り離してその社会だけで描くと、
なぜか現実社会が良い影響を受けるのだ。
勝手に幸せを掴みたまえ。
そしてその主人公のおかげで、
周囲(やその社会全体)が、
幸せになる物語を書きたまえ。
勝手に、現実社会がいい影響を受けるだろう。
たとえば、
現実に現れたジョーカーをどう裁くべきか、
いい結論は出ていない。
しかし架空の世界の架空のジョーカーが、
周囲を幸せにする話をつくれれば、
現実社会でのジョーカーは減るかもしれないよ。
それが物語の間接的な影響力なんだよね。
2023年11月23日
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