2023年09月20日

小説「ノウイットオール」書評

今オムニバスものを研究していて、
その流れで読んでみようと。

5本オムニバスなのだが、
全部ジャンル違い、同じ街の同じ時系列で、
ちょっとずつリンクするタイプのストーリーって、
どういうこと?と全貌を知りたくなったので読んでみた。

決定的ネタバレなしですが、
微ネタバレで進行。


5ジャンルを書き分ける筆力、
そして各ジャンルを跨いだ伏線回収、
ラスト一行でどんでん返し(うっちゃり?)をかますなど、
すべてのレベルが高く、
並大抵のプロですら構築できないタイプの、
ナイスパズルといえよう。

(ただこのラストは二つのSFで見たことがあるはある。
ただこういう使い方は初めてで新鮮なやり方だった)

特に出色は2章のM1挑戦青春モノで、
何度か泣くくらい出来が良かった。

ただここがピークなのが惜しいんよね。


1→2→3→4→5と、
尻上がりになるべきだとは思うんだけど、
2がピークになってるのが、
あまりにももったいない。

でもオムニバスってさ、
出来を調整するの難しくない?

しかも2の出来が良かったからといって、
構造上5番にできないんだよ。
345が伏線回収編みたいなことだからね。

内田けんじの「運命じゃない人」、
そのパクリであるところの「カメラを止めるな!」
同様、
「前半のアレがコレかー!」
の面白さがある以上、
前半に伏線撒き、
後半に回収の構造はまぬがれない。

しかも4の魔法モノで2を回収してるので、
現実の2をファンタジーの4で解決する必要があり、
ここは逆順にできないし。

そもそも4は2ありきの話で、
4単独では成立してないストーリーだ。
だから2の単独でも成立してるパワーに負けてしまって、
オムニバスというには力不足という印象がある。

3は2の裏という位置付けではあるものの、
SFという派手な枠組みにも関わらず、
2より地味な印象を受ける。
ヒロインの動機が「好奇心」のみだったのが弱いんだな。
降りかかる火の粉を跳ね除けることがメインプロットになってしまい、
それはターミネーター同様「逃げる」話になってしまう。

ターミネーターのように映像革命があればよいが、
これは「書けばなんでも成立する」小説というメディアなので、
特別なものから逃げている感覚は少なく、
「ふつうのものから逃げるだけの話」になってしまっていたのが惜しい。

2の、最初は巻き込まれ型ではあったものの、
次第に炎が燃え上がってくるプロセスに、
一喜一憂してた感覚と比べて、
ずいぶんと「ストーリーとの距離感」が遠い気がした。
平たくいうと、感情移入の度合いが、
100:1くらいだったんよね。

美少女の内面に感情移入できないのもあるよね。
そこまで上手く描かれていたわけでもなし。

まあ、5本のうちの閑話休題、
という意味になるのかなあ、よし次、
と4を読むと、
ファンタジーという外面にしては内容が薄く、
2と3の伏線回収のためだけの、
表面的なバトル展開を利用してるだけに見えた。
つまりガワによるこけおどしだと。

我々はすでに2の内容的充実を経験してるので、
それに比べた4の、魔法使いとバンパイアの構図が、
とてもチャチに見える。
魔法使い個人の人生の悩みとかあればまた違ったかもね。
(冒頭の戦ではネクロマンサーとしての苦悩が描かれている気配はあるが、
その後の異世界冒険譚では一片も使われていない。
せっかく魂を使役したのだから、
ネクロマンサーとしての喜び?に目覚める話でも良かったように思う)

5の短歌は良かったけど、
相貌忘却の二つの情報量は多かったかもなあ。
ストリートポエムのエピソード単体は良かったけど、
そこだけ浮いちゃってるよね。

なにより、2の勢いに勝ててないから、
やっぱり2がピークだったかー、感が拭えない。
(5が短歌だけで勝負できてたら…)


もちろん、
伏線解消の気持ちよさはよく、
ヤクザの電話のネタバラシや、
探偵の能力のネタバラシのリンクもとてもよかった。

ただ、「リンクが良い」となると、
エピソード単独の強さを減じる
(作者が安心して油断している)のだな、
というのが如実にわかってしまう。

そのリンクなしでも単独として強い話か、
と問われると、
1が水準点、2が満点、34が微妙、5が惜しい、
という感じになってしまう。
「5つのジャンル」というほど、
5方向には尖ってなかった。
同じストーリーが、5つの文脈で繋がってるだけ、
という印象だったなあ。

4の文体の工夫はよかったけど、
3の文体が専門用語以外は2の文体と変わらなかったのも、
3が引っ込んで見える原因かも知れない。

たとえば映画だったら、
5本ともカメラマンを変えるくらいやると思う。
それくらいには、変わってなかったのが惜しまれる。

一本くらい、
「この街の破滅を止める」くらいでもよかったのでは。
4は怪物退治がメインじゃなくて成仏話がウエイトだからなあ。



ということで、
贅沢な観客としては、
「もっと行けるやろ」と思ってしまった。
「345を2並の出来にして欲しかった」ともいえるか。

フランス映画に「トリコロール」という三部作の映画がある。
これまた全く違うジャンルなのだが、
3本に微妙なリンクがある、
という、リンクものの原型みたいな映画だ。
2、3と進めるたびに、
リンクは面白いんだけど、
映画としての出来が下がってきて、
3は単独映画としては出来の悪いほうに入っている。
そんなことも思い出した。

この作者は「トリコロール」を知ってたかどうかは不明だが、
その欠点を自覚的に言葉にしてなかったのではないだろうか。



あとテーマね。

これだけのリンクと伏線回収の手腕には拍手ものだけど、
「それがなんになるの?」
という一歩引いた目線からは、なんにもないのよね。

伏線回収腕自慢大会なら歴代一位優勝クラスだけど、
それが物語のテーマ性とは結びついていない。
タイトルの「ノウイットオール」、
つまり観客だけが全知ですよ、というのは面白いが、
彼らの人生のテーマの関連性は薄い。

つまりこれは、仏作って魂入れずの作品だ。
形骸なのだ。

「いや、人生ってそんなものじゃないですか」
といわれればはいそうですなんだけど、
それは新しい発見ではない。
クラウドアトラスなんかですでにやってるし、
やっぱり蟻の観察みたいに、観察しましたはいおしまい、
でしかないのよね。

これが仏教説話なら輪廻転生にひっかけて、
一段深い説教になりそうだけど、
はい伏線回収ーしかない気がする。

まあ、そういうタイプにしては、
あまりにも2の出来が良すぎたんだろうな。

「マグノリア」では、
ラストにカエルが降ってきて、
12人の登場人物がそれを目撃する。
聖書にもある逸話だそうだが、
「そんなとんでもないことが人生では起こるのだから、
小さなことにかまけてないで、
人生の本分を生きよ」という意味らしい。
なるほど、それで登場人物たちはふっきれる。

そんな風な、「最後に全部を意味的にまとめるもの」
が欲しかったところ。
(似たような構造の「バベル」では、
まとめるものがガンとテレビしかないんよね。
なので関係性が希薄すぎた。
それこそ現代の象徴である、的な暗喩ではあったが、
うおー深いーというほどでもないし)


花火はギミックでしかなく、意味ではなかった。
5の範囲では意味になったけど。

ラストシーンでも5本をまとめたとはいえないね。
1235の後日談としてはいいけどね。


そうそう、ラスト一行は、
「ハッハーッ!」って伏線回収の見事さに快哉をあげるレベルの出来なのだが、
そのことによってこの物語全体のテーマが定着するような、
最後の1ピースがハマる意味ではないのよね。
だから膝を叩いて拳を突き上げたはいいが、
「…」って下ろす感じになってしまう。
うーん、ノウイットオールではあるが、
この手のものはゲームとかでも見たことあるしなー、
みたいな。



ということで、
大変意欲的で面白く、
新しいオムニバスが現れたかと思われたが、
うーん惜しい、という小説であった。

2の出来がもう少し悪ければ、
「きちんと最後に落とさなければ」と、
花火などにオチを求めていたかもね。
2の出来が良すぎて、安心してしまったともいえる。

そうそう、2では彼女が小説書いてるって言ってたから、
3は彼女の小説でした、ってのをずっと待ってたんよな。
叙述トリックというかメタというか。
なのにそっちへ行くのかと戸惑った。
その誤伏線は、カットでよかったのでは。



さて、
オムニバス、どう考えるべきかねえ。
全体で一本の話に、どうしても負けるんよなー。
posted by おおおかとしひこ at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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