2023年11月24日

公私がつながると驚く

よくあるテクニック。


・犯人は実の兄だった……!
・彼女ができたと思ったら、妹と歩いているだけだった
・宿敵を殺さなければならない、しかしそれは実の父
・社長に話をしに行くが、遠い親戚だった

などなど、
公的な人物関係をX、
私的な人物関係をYとすると、
X単独、Y単独で使わずに、
XかつYというものをつくると、
驚きがあり、新鮮味が出てくる。

親戚の経営する会社に入社する、でもいいし、
宇宙人と戦闘していたと思ったら、
実は地球人の未来であった、でもいいし、
先輩が最終的なボス、でもいい。

とにかく、
私的な関係だと思ったのに、
実は公的な関係でつながっていた、
ないし、
公的な関係だと思っていたが、
実は私的な関係でつながっていた、
でもよい。

「ええー、実は〇〇だったのかー」という驚きを、
簡単につくれるぞ。

身内という私的な人間関係は、
一見公的な人間関係とは別々に存在しているように思える。
だから、それを一緒にすると急に面白くなるわけだ。

逮捕しようとする刑事と逃げるスパイが、
夫婦関係、というのなかったっけ。
まあいくらでもありそうか。
恋人や夫婦は、つながりのないところにつながりを作ることができるため、
単なる親戚関係よりも自由度が高く、
ご都合主義を悟られにくいよね。

壮大な、ユリアをめぐる兄弟げんかが北斗の拳だ。
王位継承権をめぐって戦うのに、
実の兄が混じってくるのがキン肉マンだ。
二つの国の戦争なのに、
要はクレオパトラを巡った戦いなのがシーザーである。

私的なことと、公的なことをクロスすると、
物語の種になりやすい。
血のつながりがなかったとしても、
元親友だったのに敵、とかでもいいよね。
かつて敵同士だったのに、結婚してもいいわけだ。

私的な関係と公的な関係をクロスさせると、
いろんな説明を省略できることがある。
興味深いだけでなく、
説明が楽になる効果も生むことがある。

脚本理論的にいうと、
メインプロットとサブプロットが重なってるわけだ。


使いこなすと面白いぞ。

下手な人は全部身内になっちゃって、
身内で回してるだけやん、になってしまうが。
(北斗の拳の後半はそう見えてしまった。
カイオウとラオウが兄弟、ってのはさすがにないよなー)
posted by おおおかとしひこ at 02:17| Comment(7) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いつも勉強させていただいております。

これって脚本家・笠原和夫が言うところの「アヤ」なんでしょうか?

笠原がマキノ雅弘の映画脚本を書いた時に、

元々は米屋だった清水の次郎長が、米泥棒に来た浪人を罵言を浴びせて追い払う。
浪人は罵言を気にして死んでしまう。
そのことを浪人の娘から聞かされて反省して、次郎長は任侠の道に入る。
その後、ある女郎にほれるが、実はその女郎は、死んだ浪人の娘だった。
次郎長は金だけおいて帰ろうとするが、女郎から「わたしはお金で抱かれる女なんだから、ちゃんとお金を払ってだいてください。あなたはそういう人なんでしょ」といわれる。

これがアヤだと言っているんですが、
元米屋と泥棒(の娘)=公的関係

ということでしょうか? 同じような違うような……。どうもこのアヤというのがいまひとつわかりませんで……。

もしよろしければ大岡さんのご意見をうかがえればありがたく存じます。

いつもおかしなコメントばかりして申し訳ございません。
Posted by ふじ at 2023年11月24日 13:37
>ふじさん

物語(の一部)を「複雑な状況下におけるひとつの決断」
と仮定すると、
その複雑な状況のことはすべてアヤといっていいのではないかと。
それが義理と人情に分かれていたものは、
昔の時代劇によくありました。

たいてい、義理=公、人情=私と考えていいでしょう。
ただこの場合、金で抱く娘=私ではないため、
人生の複雑なアヤがあるよね、
くらいの意味合いで書いていて、
とくに定義を書いてないのだと考えます。

つまりアヤのほうがより大きな概念です。
Posted by おおおかとしひこ at 2023年11月24日 14:08
ご返答ありがとうございます。

なるほど。

他にも「アヤ」の例は挙げられていて

水商売の女が、書生を助けてやる。
女は書生のため借金をする。
だが、その借金を返すために男に手ごめにされかかり、書生を愛するが故に思わず相手を殺してしまう。
殺人者となった女を裁くのは検事になった書生だった。

他に挙げられている例が

元は不良で警察官になった兄貴がいた。
その兄貴に捨てられた女が、チンピラになっていた弟をたらしこんで復讐しようとする。

これがアヤだと言っています。

どれも公と私がクロスしているような、大岡さんのいっていることとは違うような。

確かにアヤの方がより大きな概念のようで、その分どうもこの「アヤ」の概念はぼくにはつかみにくい感じがします。
むしろ大岡さんのいうように「私的な関係と公的な関係をクロスさせる」ことに焦点を合わせて考える方が、ぼくには物語として発想(運用)しやすい感じがします。

毎回、勉強させていただきありがとうございます。
Posted by ふじ at 2023年11月24日 17:48
>ふじさん

それらの例からは、
公私のクロスというよりも、
公的な文脈と私的な文脈が織り交ぜられて、
一周回ってきたかのような、
因果応報的なものを感じますね。

応報があるかは置いといても、
いわば「一周回ってきた縁」みたいな感じで、
極めて日本的な物語のあり方を感じます。

複雑化させて縁をつなぐのに、
公私を交代に使い、一周回ってくると大体うまくいく、
みたいな経験則ですかね。
Posted by おおおかとしひこ at 2023年11月24日 17:55
たびたびのご返信ありがとございます。

因果応報というのか因果律みたいなものを重要視していて、それを描くには公的な文脈と私的な文脈を織り交ぜるのが効果的、ということなんでしょうか。

因果律か……。うーん、やっぱり運用しずらそうな手法ですねえ……。複雑すぎるというか……。
こうしてお尋ねしていると気がつきますが、わたしが今まであまり考えてこなかった概念ですね……。

いつもいつもお教えいただき感謝しております。ありがとうございます。
Posted by ふじ at 2023年11月24日 18:08
>ふじさん

清水の次郎長なので、
江戸時代の講談あたりがベースになっていると思います。
落語とかもそうですが、
室町から江戸にかけては、
仏教説話をうまいことストーリーに混ぜ込む手法が確立したはずです。
(詳しくはしらない)

因果応報(たとえば、ドラえもんにおいてのび太が道具を使って最終的には自分にぎゃふんと返ってくる、というのもそのひとつ)は、
その中でも比較的やりやすいパターンだったのでは。

風が吹けば桶屋が儲かる的な中に、
公私の因果の糸が繋がると考えれば、
ただのピタゴラスイッチで、
あとは一周する構造を作れればOKな気がします。
Posted by おおおかとしひこ at 2023年11月24日 18:17
ありがとうございます。
ご教授を参考にして、研究させていただきます。
毎回、誠にありがとうございます。
Posted by ふじ at 2023年11月24日 18:21
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