リライトあるある。
新しくリライトした部分だけよく見える。
なんならそこだけ光って見える。
前から思っていた旧来の部分を更新して、
そこだけよく見えることが、
まれによくある。
だけど、その感覚には、
「新しい部分と古い部分」という、
作者しか分からない感覚で見ている、
ということに気づこう。
街を想像しよう。
昔からある古い家と、
最近建ったばかりの新しい家が混在しているだろう。
繁華街でも新旧の店があるだろう。
それは、あなたが知っているからだ。
もちろんある程度見た目で区別は出来るものの、
「どっちが新しいか、古いか」は、
あまり問題ではない。
「機能するか、しないか」「良いか、悪いか」
でしかないはずだ。
もちろん、新しいものがよりよい可能性が高いが、
しかし古いものが新しいものを凌駕していることもよくある。
つまり、新しさは良さのファクターとしては弱いほうだ。
にもかかわらず、
自分でリライトしたものを見るときに、
「最近直した部分」という色眼鏡をかけてしまうことが、
まれによくあるわけ。
「ああ、ここ直したから安心した」って感覚だ。
これはよくない。
多分、整形してどんどんだめになっていくタイプって、
こういう風に顔面を見ているんじゃないかと思う。
最近手を入れたかどうか、であると。
トータルで機能していて、よいならば、
別に更新したり改造する必要はない。
しかし、
古いからといって不安になったりする、
という心理が、
改造しすぎるとあるのではないだろうか。
まずは、その心理に気づくことだ。
自分は「新しいからよいと思っている」のか、
「新旧関係なく、よいものだけを選んでいる」のかを、
自分の中で判断しておこう。
一番簡単なそのフィルターを外す方法は、
「しばらくその原稿から離れる」である。
半年かかって書いたものだとしたら、
それ以上の期間、たとえば一年寝かせるとよい。
最新部分が一年前で、最古の部分が一年半前だから、
新旧の違いはあまりなく、同じ程度で見れるようになるよ。
そしたら、たかが数日の差とか、数週間のリライト期間の違いとか、
関係なくなってくるからね。
まあそれは極端だ。
でも「畳と女房は新しいほうがよい」なんて感覚があるからね。
古いものはとにかく良くない、
という感覚は、日本人の中に根付いている。
それは、魚や野菜ベースで生きてきた食習慣が関係しているんだろう。
新鮮なほうがよい、という感覚ね。
熟成や醸造、という感覚は、あまりないのかもしれない。
雪深い国だったら、古いものを珍重する文化があるかもしれない。
ウィスキーや漬物とかは寒い国で発達しているからね。
ということで、
新旧が重要なのではない。
良いか悪いかが重要だ。
にもかかわらず、
新旧だけで良さみを判断しがちな、
自分の偏見を取り払うことだ。
そのために、
文字うちして清書すると、
どこがどこかよくわからなくなるので、
リライト時はデジタルベースでやるといいかもしれない。
アナログ原稿だと、どこが最新か、
文字の感じで分かってしまうからね。
切り貼りしていたら、その紙の新しさとかでわかるもんね。
逆にいうと、デジタルはそういう匂いをすべて消臭してしまうから、
魂が入りにくいともいえるな。
フラットに、
前の版、ちょっと前の版、今の版を、
比較してどれがよいか判断することは、
たいへん労力がいる。
ぐったりして夜まで起きてられないくらい疲れることは、よくあることだ。
頭を使うってそういうことだ。
だから、
それから逃げないで、
「新しいからよい」という阿呆な感覚を、
なるべくシャットダウンすることだね。
もちろん、「苦労したからよい」という間違ったフィルターもある。
とかく、「良い」を見極めるのは難しい。
自分の何かが必ず入ってしまう。しかも無意識だ。
いかん、今自分は〇〇フィルターが入っている、
という自覚をすることは、
判断をするうえで大切なことだね。
2023年11月30日
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