「自分は特別でありたい」という願望の反映だから。
特別な能力というのは、
「普通じゃない能力」と言えるか。
腕っぷしがつよいとか、発明ができるとか、
映画によくあるものはまあよしとしよう。
問題は、
「ドラゴンと人間のハーフである」とか、
「超能力がある」とか、
「ゲイだったが心臓移植を受けて人格が変貌した」とかだ。
まあざっくりいうと、中二病的な設定だね。
もし、これでも面白いストーリーになるなら、
メアリースーとは言われない。
ただの「変わった設定」だ。
メアリースーかどうかの境目は、
「そのことに甘えているかどうか」に尽きる。
仮に「ドラゴンとのハーフ」だとしたら、
そのことについて、差別を受けてきた過去があり、
しかし両種族の橋渡しのようなことをしたいと思っていて、
ドラゴンの歌を人間に訳したり、
人間の文化をドラゴンに広めようとしたりなど、
「ドラゴンとのハーフ」という生き方がうまく描かれていれば、
多分それは設定倒れになっていない。
しかも、それが単なる描写じゃなくて、
ストーリーに関与する形で、
行動に関係してくれば、
それはメアリースーではなく、単なるストーリーになるだろう。
そもそもなぜそんなに異常な設定をしたがるのか?
「ふつうの人」じゃだめなのか?
わざわざ、異常を好んで設定するのは、
やはり、
「私は特別な人でありたい」という作者の願望だと思うんだよね。
私はつまらない、平凡な人だと思われたくない。
私は特別だ。文章も書けるし、シナリオも書ける。
そういう「私は特別である」と思いたい心が、
「ふつうじゃない設定」の原因であることが大きい。
ためしに、それを普通の丸の内OLにしてみればいい。
それで特別なオーラがはがれてしまうならば、
それはその設定に寄りかかって、
特別なことをやっている「気がしただけ」なんだよな。
近所のコンビニ店員に設定を変えてみたまえ。
近所のケーキ屋にしてみたまえ。
近所のタクシー運転手にしてみたまえ。
近所のサラリーマンにしてみたまえ。
そのへんにいる、
無数の「普通の人」に設定を変えたら、
特別性がなくなるなら、
それは設定に酔っている。
あるいは、無意識に、そうしたごく普通の人々を、
馬鹿にしている。
だから、特別な人は特別だと思いたい。
そうした自分の心理に気づくことだね。
それを満足させるためだけに、
メアリースー的な設定をしている、
という事実に気づきなさい。
もしその中二的な設定を外して、
とても平凡な人の話にしたら?
それでもプロットが面白く、
展開やテーマが心にずしんと来るものになっているかな?
なってれば、メアリースーはいらないので捨てよう。
もし特別なオーラが消えた瞬間、
物語の翅がもがれた、
と思うなら、
それは設定厨に過ぎないんだよ。
あなたは特別でもなんでもない。
むしろ、シナリオなんて書いている、
くそみたいな蛆虫だ。
何にもなっていない、何者でも無い者だ。
そのことにまずフラットになろう。
俺も君も大したことがない、
ふつうの人だ。
馬鹿にされ、中二病たちから侮蔑される、
ふつうの人だ。
その、ふつうの人が幸せになる話を書こう。
中二病設定がいらない、
ふつうの話を書こう。
ふつうの人は幸せになっていいんだぞ。
そういう話を書こう。
それが出来たら、
別にドラゴンとのハーフとか要らないよ。
世の中には、
特別な人が特別に幸せになる話もある。
ふつうの人が、ふつうの幸せを得る話もある。
後者を書けるようになってから、
あらためて前者に挑むのは構わない。
しかし、後者が書けないから、
前者を書いて、特別な選民意識に浸っているだけの、
自己満足の殻から抜け出よう。
これはとても気づくのが難しい。
特別な設定をしすぎているなら、
注意してみたほうがいい。
特別な人の話しか書けないなら、
まだ実力は足りていないよ。
特別な設定、中二的な設定は、ガワに過ぎない。
不細工に生まれたから、美人やイケメンの話を書いている、
そのプライドを捨てることだな。
不細工がそれなりに幸せになったり、
不細工ががんばって最高の幸せを得る話を書けばいいと思うよ。
そんな奇跡を起こせないなら、
奇跡が起こる映画的物語など、
端から書けないと思うな。
2023年12月09日
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