2023年12月09日

なぜメアリースーは特殊能力持ちが多いのか

「自分は特別でありたい」という願望の反映だから。


特別な能力というのは、
「普通じゃない能力」と言えるか。
腕っぷしがつよいとか、発明ができるとか、
映画によくあるものはまあよしとしよう。

問題は、
「ドラゴンと人間のハーフである」とか、
「超能力がある」とか、
「ゲイだったが心臓移植を受けて人格が変貌した」とかだ。
まあざっくりいうと、中二病的な設定だね。

もし、これでも面白いストーリーになるなら、
メアリースーとは言われない。
ただの「変わった設定」だ。
メアリースーかどうかの境目は、
「そのことに甘えているかどうか」に尽きる。

仮に「ドラゴンとのハーフ」だとしたら、
そのことについて、差別を受けてきた過去があり、
しかし両種族の橋渡しのようなことをしたいと思っていて、
ドラゴンの歌を人間に訳したり、
人間の文化をドラゴンに広めようとしたりなど、
「ドラゴンとのハーフ」という生き方がうまく描かれていれば、
多分それは設定倒れになっていない。
しかも、それが単なる描写じゃなくて、
ストーリーに関与する形で、
行動に関係してくれば、
それはメアリースーではなく、単なるストーリーになるだろう。

そもそもなぜそんなに異常な設定をしたがるのか?
「ふつうの人」じゃだめなのか?
わざわざ、異常を好んで設定するのは、
やはり、
「私は特別な人でありたい」という作者の願望だと思うんだよね。

私はつまらない、平凡な人だと思われたくない。
私は特別だ。文章も書けるし、シナリオも書ける。
そういう「私は特別である」と思いたい心が、
「ふつうじゃない設定」の原因であることが大きい。

ためしに、それを普通の丸の内OLにしてみればいい。
それで特別なオーラがはがれてしまうならば、
それはその設定に寄りかかって、
特別なことをやっている「気がしただけ」なんだよな。

近所のコンビニ店員に設定を変えてみたまえ。
近所のケーキ屋にしてみたまえ。
近所のタクシー運転手にしてみたまえ。
近所のサラリーマンにしてみたまえ。
そのへんにいる、
無数の「普通の人」に設定を変えたら、
特別性がなくなるなら、
それは設定に酔っている。
あるいは、無意識に、そうしたごく普通の人々を、
馬鹿にしている。
だから、特別な人は特別だと思いたい。

そうした自分の心理に気づくことだね。
それを満足させるためだけに、
メアリースー的な設定をしている、
という事実に気づきなさい。

もしその中二的な設定を外して、
とても平凡な人の話にしたら?
それでもプロットが面白く、
展開やテーマが心にずしんと来るものになっているかな?
なってれば、メアリースーはいらないので捨てよう。
もし特別なオーラが消えた瞬間、
物語の翅がもがれた、
と思うなら、
それは設定厨に過ぎないんだよ。

あなたは特別でもなんでもない。
むしろ、シナリオなんて書いている、
くそみたいな蛆虫だ。
何にもなっていない、何者でも無い者だ。
そのことにまずフラットになろう。
俺も君も大したことがない、
ふつうの人だ。
馬鹿にされ、中二病たちから侮蔑される、
ふつうの人だ。

その、ふつうの人が幸せになる話を書こう。
中二病設定がいらない、
ふつうの話を書こう。
ふつうの人は幸せになっていいんだぞ。
そういう話を書こう。

それが出来たら、
別にドラゴンとのハーフとか要らないよ。
世の中には、
特別な人が特別に幸せになる話もある。
ふつうの人が、ふつうの幸せを得る話もある。

後者を書けるようになってから、
あらためて前者に挑むのは構わない。
しかし、後者が書けないから、
前者を書いて、特別な選民意識に浸っているだけの、
自己満足の殻から抜け出よう。


これはとても気づくのが難しい。

特別な設定をしすぎているなら、
注意してみたほうがいい。
特別な人の話しか書けないなら、
まだ実力は足りていないよ。

特別な設定、中二的な設定は、ガワに過ぎない。
不細工に生まれたから、美人やイケメンの話を書いている、
そのプライドを捨てることだな。
不細工がそれなりに幸せになったり、
不細工ががんばって最高の幸せを得る話を書けばいいと思うよ。
そんな奇跡を起こせないなら、
奇跡が起こる映画的物語など、
端から書けないと思うな。
posted by おおおかとしひこ at 06:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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