とても面白い内容が出来たとしよう。
表現された原稿が、それを表現するのが下手で、
それを表現でききれないとしよう。
それはもったない。
なぜなら、その低レベルでしか伝わらないからだ。
表現力を磨くのは、
その内容を劣化させず伝えるためにある。
もっとも、表現力が高すぎて、
実質内容よりよく見えてしまう場合などがある。
たとえば出オチは、
出た瞬間がピークで、その期待力はマックスなのだが、
それは実質の内容(その後の活躍)に比べて、
実態より大きく見せてしまった、
単なる張り子のトラなわけだ。
その逆の話を今はしようとしている。
つまり、
あなたの文章力が下手なゆえに、
せっかくの内容を、その内容以下に表現してしまっていない?
ってことを言おうとしている。
あなたの中にめくるめく面白い内容が沸いているのに、
あなたの書いた文章は、それを表現してなくて、
しょぼい内容しか言っていないかもしれないぞ、
ということである。
それは、主観的に自分の書いた文章を見ていてはだめで、
客観的に自分の文章を見れないといけない。
それには、
書き終えてから最低3週間ほどは寝かして、別の人の文章を見たりして、
目をフラットに戻しておく必要があったりする。
この「目をフラットに戻す」ことは、かなり重要で、
自分の文章を見慣れてはいけない、ということだ。
他人の文章の中に混じった自分の文章、
というような客観性を持ってないといけないわけ。
また、
自分のイメージを正確に書くことが正解とは限らない。
イメージなどはそれぞれの中に沸くものだから、
「イメージがわきやすい文章」を書くことも大事だ。
あなたの思い描いたビジュアルを、
正確に文章に起こすことは不可能だと考えたほうが良い。
だから、正確に書き取りをするのではなく、
「何がどう起こったか」を中心にレポートする、
と考えたほうがよりイメージが湧きやすいのだ。
たとえば料理の場面。
飴色の玉ねぎと肉が焼いてあり、湯気が立っている、
と書くよりも、
玉ねぎと肉を炒めたものに黒コショウがいい香りを放っている、
のように、
「そうしたらこうなるだろうな」というイメージを湧かせるようにしたほうが、
想像できるものになる。
別に撮影現場で、黒コショウが使われるかどうかまではどうでもいい。
「うまそう」と思わせれば、なんでもよいのである。
もちろん、あなたに文章力があり、
ビジュアルを描くだけでうまそうと思わせれば、それもよしだ。
僕は文章力がそんなにある方じゃないから、
どんなに正確に頭の中のイメージを描写しても、
100%書けないことに悩んでいた。
しかしある時から、
100%伝わったとしても、それがどうなんだ、
と思うようになった。
そうじゃなくて、
想像が膨らむように書けば、
正確なイメージよりもよくなるのなら、
それを採用するべきだと思うようになったわけ。
せっかく90点の内容をつくったのに、
文章力がないだけで、70点に見られるのは、
幸福じゃないよね。
90点の文章力で、90点の内容を書くべきなんだよ。
90点の文章力を持っていない人は、
想像力が膨らむような文章をもって、
70点から20点分、読み手に想像してもらい、
補ってもらうようにすればいいんだ。
90点の文章力をもちろん鍛えてつけても良い。
なんなら文章がうまくて、
90点の内容が97点くらいに見えるかもしれないね。
(出オチと同様な原理で)
とくに小説はこれが可能なジャンルだと思う。
純文学などはそういうジャンルだろう。
内容は平凡だけど、
文章力がうますぎて、こんなに豊かに日本語の文章があるのか、
という日本語芸の世界があるように思う。
三島由紀夫を読んだときにそれを強く感じた。
読んだことはないが、村上春樹もそうだと思われる。
映画版の「ノルウェイの森」を見る限り、
プロット自体は平凡だなあと感じたので。
文章そのものが良いだけで、プロットや行動や結末は、
そうたいしたことないんじゃないか、と想像している。
文章力だけがある人は、
たとえば歌手に例えられるのかもね。
音階やテクニックが上手な人、みたいな。
それでうんこみたいな曲も名曲のように歌えるのかもしれない。
もちろん、名曲を平凡な歌手よりも、何倍もうまく歌えるのだろう。
あなたは優れた書き手になるべきだが、
文章力そのものを鍛えまくらなくてもよい。
読み手が想像力を使って、
面白い話であるように受け取れれば、
それだけでよい。
50点の内容を90点にすることを考え、
70点の表現を90点まで上げられるように、
考えればいいだけのことだ。
もちろん、
文章力を鍛えること自体に反対はしない。
僕がこうやってブログを書いているのも、
わりと文章力を鍛える一環だったりするからね。
2023年12月23日
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