なんでだ?
簡単だ。主観的で、客観的ではないからだ。
作者が書きたいことを書き切ろうが、
自分のやりたいことを20%しか出せなかったろうが、
観客には関係がない。
作者はあそこをもっと細かく書きたかったなー、
と不満が残っているところでも、
観客的にはサクサク進むための、
十分削ぎ落とされた部分に見えているかも知れない。
もっとも、
作者が思う存分書き切った上で、
これは情報量が多すぎると判断して、
泣く泣くカットして、
ほとんど最初と同じに戻るかもしれない。
「書き切った」の基準をこのような、
「気になる細かいところをぜんぶ直した上で、
全体の情報量を熟慮して、
削ぎ落として、1000を100までに凝縮したうえで、
何も知らず楽しめるようにした」
にするならば、
書き切ることは、最後まで検討した、
という意味になるだろう。
ところがほとんどの場合、
「書き切る」とは、
1000思いついた、調べた、思いがあるものを、
100の枠に1000ぶちこもうとすることを意味する。
結果、
情報が錯綜し、ノイズが多く、
なかなか進まず、
あるいは詰め込みすぎてどんどん進んで、
重要なところを把握しきれないようなものに、
なりがちだ。
これはつまり、作者が「不満がなく気持ちよかったー」
って言ってるだけで、
それをどう受け取るか、どう渡すかまで、
何も考えていないことのあらわれだ。
スポーツ選手が、
「試合で出し切りました」という場合は、
「押すべき時は押し、引くべき時は引くような、
普段の練習の成果が全て出て、
まるでいつもの練習のように伸び伸びできました」
という意味である。
しかるに、シナリオには練習試合がなく、
すべて本番試合だ。
だから、「出し切る」の方向性が変わってきてしまう。
なので僕は、
練習試合=習作をたくさんせよ、
という話をしている。
没を沢山書けということだ。
没は没なりの理由があろう。
もし行けそうなら本番作品としてストックしておけ。
ということは、
「その没理由、失敗をしない作品」が、
練習通りに勝つってことだよね。
もちろん、
何回やっても同じ失敗をすることもあり、
そしたら練習試合で気になるわけだよ。
「この失敗に至らない方法は何か?」
なんて考え込むだろう。
そこに意味がある。
自分の弱点を把握して克服する、最大のチャンスだ。
(その方向を描かない、という消極的回避策もあるが、
いつかそれは乗り越えなければならない壁として立ちはだかるだろう。
だとしたら、小さな壁をわざとつくり、
超えられるかをやればよい。
あとはその壁を少しずつ高くしていく)
そんな風な、いつもの練習の感じが、
緊張せずに伸び伸びできたことを、
「全部やり切った」と言ってもよいと思う。
「書きたいことはまだまだあるけれど、
作品としてはこれが必要十分」になってることが、
作者の実感として正しいと思うわけ。
主観にも客観にも目配せが効いてるからね。
書きたいことは何?
どれだけの膨大な思いがある?
そしてそれはどんなストーリー?
何を準備した?
どれだけ調べ上げた?
その調べたことを全部持って帰ってもらう?
本質的に持って帰るべきお土産を、
一つに絞るとしたら?
あなたはフィルターである。
膨大なコーヒー豆から、
純粋な一滴を抽出しなければならない。
コーヒー粕は、植木にでもあげなさい。
(乾燥させないとハエが湧くらしい)
2023年12月26日
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