2023年10月19日

「葛藤」ってこういうことだよね

Twitterから適当に引用。
> 今、これを買おうかどうするか、葛藤しています。

心の中であーでもないこーでもないと考えあぐねることだ。
外から見たら、心の中のざわめきは見えず、
腕組んでよそ見してるだけだ。


「物語とは葛藤である」は誤訳だ。
心の中での葛藤は、
三人称演劇形式では描けないからだ。

だからこの葛藤を心の外に出す。

「買う」という立場の奥さんと、
「買わない」という主人公が、
買う買わないについて喧嘩すれば良い。

AvsBを、
心の中の概念同士でやるか、
具体的な人物同士でやるか、
という違いだ。

概念自体が戦うのは、たとえばCGでもできるよ。

映画シナリオは、CGのない頃からあったものなので、
概念はすべて擬人化された。
つまり、人によって演じられる、
というわけだ。

つまり、
AvsBという、心の中の概念同士の葛藤を、
Aという具体的な人物と、
Bという具体的な人物の、
対決(1ラウンドではなく複数ラウンドがありえる)と、
その結末(どちらかの完全勝利、ないし別の結末)で、
描く、
ということを、
演劇スタイルベースの映画はやってきたわけだ。

CGに喋らせて概念同士の戦いにしてもいいんだけど、
そればっかりじゃ飽きるだろうね。
だから、
人間同士の戦い、対立、お芝居に、
うまくどう転換するか?
がシナリオを考えることだ、
と考えて良い。


しかし「葛藤」と訳した人は、
一人称私小説しか知らなかった人なんだろうな。

人は、今一人称なのか三人称なのか、
把握せずに生きていると思う。
それを切り分けるところから、自覚的になるべきだね。
posted by おおおかとしひこ at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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