Twitterから適当に引用。
> 今、これを買おうかどうするか、葛藤しています。
心の中であーでもないこーでもないと考えあぐねることだ。
外から見たら、心の中のざわめきは見えず、
腕組んでよそ見してるだけだ。
「物語とは葛藤である」は誤訳だ。
心の中での葛藤は、
三人称演劇形式では描けないからだ。
だからこの葛藤を心の外に出す。
「買う」という立場の奥さんと、
「買わない」という主人公が、
買う買わないについて喧嘩すれば良い。
AvsBを、
心の中の概念同士でやるか、
具体的な人物同士でやるか、
という違いだ。
概念自体が戦うのは、たとえばCGでもできるよ。
映画シナリオは、CGのない頃からあったものなので、
概念はすべて擬人化された。
つまり、人によって演じられる、
というわけだ。
つまり、
AvsBという、心の中の概念同士の葛藤を、
Aという具体的な人物と、
Bという具体的な人物の、
対決(1ラウンドではなく複数ラウンドがありえる)と、
その結末(どちらかの完全勝利、ないし別の結末)で、
描く、
ということを、
演劇スタイルベースの映画はやってきたわけだ。
CGに喋らせて概念同士の戦いにしてもいいんだけど、
そればっかりじゃ飽きるだろうね。
だから、
人間同士の戦い、対立、お芝居に、
うまくどう転換するか?
がシナリオを考えることだ、
と考えて良い。
しかし「葛藤」と訳した人は、
一人称私小説しか知らなかった人なんだろうな。
人は、今一人称なのか三人称なのか、
把握せずに生きていると思う。
それを切り分けるところから、自覚的になるべきだね。
2023年10月19日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック