2023年12月27日

「分る奴だけ分ればいい」の逆は?

時々こういう気分になるのは、作者として当然のことだろう。

生半でないものを書いているときに、
そういう自負があるわけで、
全員がそれを理解できないとしても、
本当に分る奴だけが分ってくれればいい、
と思うことはよくあることだ。

さて、この気持ちの逆はなんだろう?


僕は二つあると思っていて、
「全員が分るようなものにするべき」というものと、
「分らない奴を置いてけぼりにしない」だと思う。


前者の場合は、
鋭く尖った、素晴らしいものを、
ある程度丸くして、多くの人に受け入れられるものに、
下方向に改変することだ。

だけどその辺にない、鋭く尖ったものであればあるほど、
それは「妥協」という、
一番やりたくないものになってしまう。

せっかく100メートル飛んだのに、
70にレベルを下げてくれ、50に、30に、
という要求だからね。
大学数学レベルの発見を、
小学生にもわかりやすく説明することは出来ないだろう。

だから、本質を語るのではなく、
なんとなく雰囲気だけになってしまい、
せっかくレベルの高いことをやっている(自負)のに、
それを台無しにしないといけない、
後ろ向きの気持ちになるのは、
作者として不満が残る。


だから僕は、
全体のレベルを下げるのではない、
別の方法論でやるべきだと考えている。

つまり、
「分る奴は分る」かつ、
「分らなかった奴も別の方法で楽しめる」
という、さらにレベルを上げることでだ。

そんな難しいことが出来るかな?

ミュージカルは、一つの方法だね。
歌詞内容に感情移入せずに、
そんなによく読まなくても、
歌や踊りの雰囲気だけ楽しめば、
それなりに楽しめるよね。

宝塚なんてもっと極端で、
歌劇のあとにレビュウという、
ただの歌と踊りのショーすら用意している、
用意周到さだ。

もちろん、歌劇の内容を精査しているだろうが、
それ以外にもショウを用意するという、
「分らなかった人もこれで楽しんでね」
という二重三重の仕掛けをしていることは、
僕は大変頭がいいと思っている。

ドラマが分らなくてもアクションだけ楽しめばヨシとか、
ドラマが分らなくてもエロだけ楽しめばヨシとか、
色々なやり方があるだろう。
ドラマはきちんと背景が分る人だけでいいよ、
という割り切りで、
一色団子じゃなくて、三食団子にしようぜ、
ということなんだよ。

それが出来ないならば、全体のレベルを下げて、
食いやすい定食にしてあげることも、
シェフの判断だと思う。


世の中のプロデューサーは、
「二つのやり方があると思う。どっちがいいと思う?」
と脚本家に選択肢を出せるほど、
きちんと分っているとは思えない。

もちろん、分っている人はそういう誘導も出来るだろう。
だけどたいていのプロデューサーは、
分る奴しか分らない難しい場面に出くわすと、
「分りやすく」と、レベルを下げることを要求するんだよね。
たぶん「僕はバカなのでわかりませんでした」
と正直に言えない。
それは、作品に誠実に向き合ってないともいえる。
自分の方を可愛いと思ってるわけだ。

だから脚本家とプロデューサーは相いれなくなってしまう。
それは双方にとって不幸だ。
どっちが歩み寄るか、という妥協合戦になってしまう。
で、権力が強いプロデューサーが勝つに決まっているから、
つまり脚本家は「言うことを聞かされ、妥協してレベルを下げさせられた」
という恨みや痛みしか残らないことになってしまう。

これはよろしくない。
プロデューサーが「分りにくい」と感じることまでは良い。
だが方法論を一つしかもっていないことは、
行き止まりに行くしかないということ。
別の方法論を考え出さないと、
誰も幸せにならない。


もちろん、
脚本家が到達した、鋭くて素晴らしい領域が、
自己満足な部分の可能性はある。
しかしそれが作品のモチベーションであるならば、
それを削るよりも、
それを生かす、別の見せ場を新しく考え出したほうが、
建設的だと思うんだよ。

そんな風に脚本打ち合わせをさばけるプロデューサーには、
僕は会ったことがない。
「レベルを下げるように」という輩が9割、
「ただレベルを下げてもつまらなくなるだけだから、
なんかいい方法はないか、ちなみに俺は思いつかない」
とぶっちゃけて味方になってくれる人が1割、
ってところかな。
最近1割もいないか。

プロデューサーは、世間の目を一番フラットに見ている。
「これはバカには分らない」ことも、
冷静に見ている。

だからバカにも分るようにレベルを下げるのか、
だからバカでも楽しめるパートを別につくるのか、
ということだと思うんだよね。

前者しか方法論がないならば、
不幸な脚本にしかならない。


一本道の話は、
こういうときに辛くなる。
複数のドラマが走る、
サブプロットが豊かなものだとうまくいく。

つまり、
サブプロットを増やすことを考えるべきなんだ。
あるいは、
転換できるサブプロットはあるか?
という問いが、
正しい改定への指針になるんだよ。
「分りやすくレベルを下げてくれ」という馬鹿なプロデューサーは、
ほんとにそれを望んでいるのか、
こちらが別の方法論を提示して、
観測気球を上げない限り分らない。

つまり、こちらが別解を先につくれないと、
この問題は突破できない。
脚本作りは、だから難しい。
posted by おおおかとしひこ at 07:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック