2023年12月29日

数カ月アイデンティティを保つのは、案外難しい

アイデンティティというのは、
結構ふらふらしているものだ。

昨日の感情と今日の感情は同じじゃないし、
昨日はいいと思っていたアイデアが、
今日陳腐に見えることはよくあることだ。

そんな数日でもうまくいかないのに、
数カ月まったく同じアイデンティティーが保てるわけないよね。
ところが、それが作品を書くことに必要なんだよね。


脚本を書くのには、ざっくり一か月はかかると思う。
文字量の手間だけではない。
準備はもっとかかるし、見直しはもっとかかる。

人にもよるから、ざっくり一か月としよう。
で、
そんなに長期的に、同一のアイデンティティーを保つのは、
結構難しいな、と思うわけ。

ショートならそうでもない。
一日で書き上げられるからね。
その日の時間帯で気分が変わることもあるが、
まあおおむね最初から最後まで、
あなたのアイデンティティーは同一であろう。
多少のブレがあったとしても、
修正可能な範囲でしかブレはない。

それが、2、3日や、一週間程度ならば、
まあブレの範囲を収めることは、
そんなに難しくないと思う。


一週間でどれくらい書けるかな。
たぶん60分くらいまで書けちゃう人もいるかもね。

僕は30分くらいまでなら一日で書くことにしているが、
60分となると数日かそれ以上かかる。
だが、一週間で2時間の脚本を仕上げるまではとても無理だ。
二週間でできる? 僕は無理だね。
三週間よりどうしてもかかる。
60分と2時間の差は結構あるんだよな。

それは、一気に書き上げるだけの、
アイデンティティーを保てない、
ということと関係あるような気がしたわけ。


一週間前に考えていた、
とても細かいことを、
全部覚えている人は少ないだろう。
一週間も違えば、
興味や気分や考えていることはだいぶ違うはずで、
その、「違うこと」が生きてる証拠だとも思う。

それをまるで、
「ずっと同じことを考え続け、
全てに神経を通したもの」をつくることが、
作品をつくるという感覚だ。

違うところでアイデンティティーが保てていないならば、
「つながってないやんけ」ってなるわけだ。



絵に例えるとわかりやすいかもしれない。
巨大な絵、一か月以上かかる絵を描くとしよう。
描いたことがなくても、
一か月もあれば、
ある部分と別の部分が、トーンやデッサンが変わってくることは、
簡単に予測できる。
群像劇みたいな絵だったらいいけど、
手と足を別人が描いたみたいな、
まるで違う感じの絵になってしまうことは、
想像すれば大体わかるのではないか。
最初に描いた部分と、
最後に描いた部分では、
別人が別の考えで、描いたようになってしまっているようなイメージだ。

全体に統一感をつくるには、
その後また部分を磨いて、
全体を一人の人間が一気に描いたようにしなければならない。

そのように統合をすることが、
シナリオではなかなか難しいよね、
ということを言おうとしている。

最初に書いた部分のところで考えていたことを、
最後まで思っていただろうか?
ある所を書いたことで気分が変わったとして、
それが前の所でも通用するだろうか?
つぎはぎになってしまっているとき、
あなたのアイデンティティーは保てていないのだ。
同一人物がひとつのことを考えて、
一気書きしたようになっていないわけ。

それは、受け手にとって、
間違い、ノイズにしかならないんだよね。

受け手の前提は、
「作者が同一のアイデンティティーであること」だろう。
当然すぎて、文字にすらしたことがないくらいだろう。

でも書く側は、一か月前の俺が考えていたことと、
今俺が考えていたことが違うから、
同一のアイデンティティーを保つことは、
実はかなり難しいんだよね。


これを防ぐ、唯一の方法は、
「一気読みして、一気書きすること」しかない。

一気読みはまあ出来るとして、
一気書きは不可能だから、
リライトでやるしかない。
つまり、リライトの赤ペン入れを、
一日程度で一気にやる、
しかないと思うんだよね。
2時間ならばぎりぎりできないこともない。

でもその工程に至る前に、
色々直さないといけないところがあり、
一日で直すことは難しいかもしれないね。

でもそういう数日の直しを経ると、
また全体が一か月+数日かけたアイデンティティーによるものになっていて、
一気読みすればするほど、
作者のアイデンティティーにブレがあるように感じるわけ。

そのうち、直しまくって、
一つのアイデンティティーどころか、
別人が書いたパートのつぎはぎになってくる。
そこまでリライトしたときに、
また一からケツまで、
一気書きの直しが出来るか?
というのはとても大事なことだと思う。



なので、
リライト後半は、
このアイデンティティーの同一性と、
一気読みの気持ち良さと、
つぎはぎの凸凹直し、
というのが主な課題になる。

内容と前後しながらのものになるので、
かなりテクニカルだと思う。

これを言ったやつが、後半こんなことを考えているはずがない、
などに思い至れれば、
だいぶそのリライトはうまくいくだろう。


数カ月アイデンティティーを保つのは、
実のところかなり難しい。
だから、
まるで一つの人格、思想が、
長い文章を書いたようにつくる。
それが、「つくる」ということだ。
執筆は決してライブではない。
そうしてアイデンティティーを保つ「つくる」をするんだね。

執筆でライブ感を重視する、
なんてのは、このアイデンティティーを保てるだけの精神力がない証拠だ。

アイデンティティーを保ちながら、
まるでライブで書いているような臨場感、
段取りを感じない感じにしていかなければならないのだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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