2023年10月24日

リライトはきちんとやろうな…

城戸賞や小説の賞に挑戦した人のツイートやブログを追いかけてみると、
ギリギリまで出来てなくて、
最後追い込んで書き上げたー!
誤字脱字チェックー!送るぞー!
みたいな、
第一稿完成即応募、みたいなものを散見する。

これはとても危険だ。
夜中のラブレター(これも死語だが)になる恐れがあるぞ。


そもそもストーリーというのは、
引きつけ続けるほど練り込まれて、
面白くなくてはならない。

それが第一稿で出来ている確率は、
僕は0だと思っている。

0.1%あり得るかも知れない奇跡にかけることは、
やめた方がいい。
僕は0だと考えてる。
世の中に絶対はないが、
人がいつか死ぬことと、第一稿が最高ではないのは、
絶対だ。


少し間を置いて読み返したら、
あまりにもの出来てなさに、
恥ずかしくなり逃げ出したくなるのが、
第一稿というものだ。

出来たーやったー!という熱はあるのだが、
まあいいや誤魔化したろ、
という部分が沢山わかってしまい、
強引に進めたところがバレてしまい、
そもそも変だと気づいてないところ、
化粧の塗り忘れみたいなところに、
ボロボロと気づくのが第一稿というものだ。

それを、経験してないのはヤバイと思う。

そんな第一稿を締め切りギリでつくって、
わーっと勢いで送ったら、
向こうも迷惑だ。
不十分なエンターテイメント、
出来てない物語を読まされる苦痛は、
映画館で、(一応プロが作った)クソ映画を見る苦痛より、
たぶんひどいだろう。

なぜクソ映画が生まれるのか?
シナリオが詰まらないからだよね。
第一稿がまずそれだと気づけるか?は、
一次選考突破のための、
最低条件だと思うんだよね。

理想は、応募半年前に書き終えて、
半年かけてじっくりとリライトすることだ。

一ヶ月のリライト期間では短いと思う。
最低三ヶ月いると思う。

なんなら、リライトに一年かけてもいいとすら思っている。


それは、
物語というのは、
それだけ「多面的な視点」から見られるものだからだ。
誤魔化しが効かない、
と思っていた方がいい。

色んな人を、100万人を、1億人を、
面白さで黙らせ、静かにさせ、
さらには夢中にさせ、笑わせて、泣かせなければ、
価値のある物語とはいえない。

それがたかが第一稿でうまく決まるはずがない。

第一稿というのは、
崖の上に手をかけたイメージだと思うと良い。
崖を上り切ればゴールだ。
崖に手をかけてすらいないかもしれない。
仮に手をかけていても、
体全部が崖の上にいない状態だ。

限られた人はいいねというかも知れないが、
全員をゴールに導けるほどの、
パワフルで夢中になる面白さに達していない確率は、
僕は100%だと考えている。

なぜなら、
第一稿を書いてるときは、
そこまで考え切れていないからだ。

第一稿は、すべての工程において、
唯一全体が見えていない工程だ。
全体が見えてないのに、
全体が見えてるわけないよね(小泉構文)。


そんなものがおもしろいはずがない。
「おもしろい」というのは、
すべての人を夢中にさせるほど、
の意味だ。

一次を突破すればいいなー、
二次突破すれば御の字、
なんていう文言をよく見る。
第一稿の偶然に頼ってる限り、
その応募は偶然に左右される、
詰まらないものになるだろう。

こういう人は、逃げている。
「第一稿を間を空けて読み直した時、
いかに自分が恥ずかしく、情けないものを書いていたか」
という辛さからだ。

「こんなものを面白いと勘違いして書いてた自分は、
才能がないどころか、気が狂ってるのではないか」
という恐怖から、
逃げているのだ。

書いた直後は熱が残ってるから贔屓目になる。
一ヶ月あけて、別のことを考え始めたときに、
改めて一気読みしてみるとよい。

そのとき、
最後まで精神をやられながら読むことを、
超えない限り次はない。

これは、
クソ映画を見た時と同じだ。
「自分ならこうする」があるよね。

じゃしろ。
それがリライトだ。


その恐怖、面倒さ、何回直しても良くならないことなどを、
乗り越えないかぎり、
ほんとうにおもしろいものは作れない。
プロなんか才能があって一発書きでー、
なんて思ってる人はプロの世界を知らないし、
この辛さから逃げている人だ。

最低10稿書きたまえ。

順々に良くならないなら、
それこそ才能がない。


リライトの才能は、
第一稿を書き上げるより必要だ。

「最後まで書き上げたらそれだけで才能だよ」
なんていうけれど、
それは1/100に残ったにすぎない。
そこから1/1000くらいの、
「リライトまできちんと終えて、
客観的に万全に面白くなった物語」
まで磨き上げなければならない。


それをやってないんだから、
一次にも残れなくて当然だよね。


自分が書いていたものが、
何の役にも立たないクズ文章だと知ることは、
自分が狂っていたことを認める恐怖だ。

だけど、それを自覚しなければ、
さらに面白くすることはできない。

その直しすら狂ってる可能性を考慮しながら、
客観的に客観的にやるしかない。

それがリライトという、
第一稿よりも苦難の道である。



僕は、「シャイニング」の、
「ジャックニコルソンは狂っていた」
というネタバレシーンが忘れられない。

有名だから書いておくが、
「数ヶ月小説を書くといって籠って、
ずっとタイプライターをパチパチ打っていた父。
ある日妻がその原稿を見ると、
同じ一文が繰り返し繰り返し、
何百ページもタイプされていただけ…」
という、
ライターにとってこれ以上ないほどの恐怖シーンだ。

自分の第一稿がこうでない、という保証はないよ。
その恐怖をのりこえ、
誰が見てもおもしろいものに練り上げるまでを、
リライトという。



どう考えても第一稿よりつらい。

その体力がないやつは、
脱落するのみだ。

だから僕は、
最初は短いものを書けという。
5分、15分、30分、60分程度のものを、
何本も書いて、
自分のペースや客観性を学ぶんだよ。
何度もリライトして、
体力をつけるんだよ。

そうしない限り、
リライトなんて怖くて出来なくて、
それから逃げて一生ワナビどまりになる。
posted by おおおかとしひこ at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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