Twitterから拾った漫画。
下手なシナリオライターは、
変化の原理、テーマの原理をこのように考えがちだ。
これは「演説」である。
(この絵自体はある主張をするがための演説であるから、
ストーリーではないため、以下の批判は関係ないです)
演説とは、
ある望ましくない状態Aがあり、
あるすばらしい主張Xを言うだけで、
たしかにそうだと心の中が変化して、
望ましい状態Bになることである。
演説ならばこれはよいことだ。
主張が正しく通ったわけだからね。
ところが、
ストーリーは演説ではない。
ストーリーで期待されていることをせずに、
演説で表現しようとすると、
「ストーリーの下手なやつ」になるのだ。
下手な例は、紀里谷版の「キャシャーン」で見ることができる。
あんなクソ演説、金返せってなるわな。
ストーリーの中での演説シーンは、
また別の話である。
たとえば「インディペンデンスデイ」や、
「シンゴジラ」の中には心昂るとても良い演説シーンがある。
演説シーンがあってはいけないということではなく、
演説シーンはあくまでサイドディッシュであり、
メインディッシュではないことである。
なぜメインを演説でやったら下手なのか?
それは、
ストーリーが「行動による証明」をするジャンルだからだ。
「お前の言ってることが正しいのなら、
やってみろよ」
という世界が前提になってるわけ。
仮に、
この漫画のような状況を、
行動で変えていくならば、
この主人公が、
自ら若返り、
次々に若い感性で新しいものを面白がる様を見せ、
周りが感化されていくさまを、
「具体的に」見せなければならない。
新しい作品のここがとてもよくて、
古い作品のこれを凌駕してるぜ、
という具体をたくさんあげて、
「そうか、古いものに縋って老化していただけなのだ」
と周囲の人が影響されるべきだ。
もちろん、周囲の人は、
わざわざそのことを言葉にしなくてよくて、
ただ新しいものを楽しめばいい(行動)だけだ。
そして、このことを具体的な言葉で「言わない」
のが上等なストーリーなのだ。
つまり、
上等なストーリーとは、
Xなる信念を持つ主人公が、
良くないAという状況を行動によって、
良い状態Bへ変えて、
Xには価値があることを、
「Xだ!」と言わずに、行動で実証することをいうのである。
これはつまり間接話法である。
Xを言わずに、結果から悟らせるやり方だ。
この基本を知らないと、
テーマXを言いたいストーリーで、
Aという状況を、
主人公が行動で実証せずに、
ただひろゆきのように言うだけで、
世界がBに次々に変わっていく、
という、
誤ったストーリーの形式を書いてしまう。
これはメアリースーである。
主人公は苦労していないからだ。
作者が楽することばかり考えてるから、
「俺の思いついた素晴らしい考えXを言えば、
みんな素晴らしさに感動して変化するやろ」
と甘く考えている、ということである。
もしそのXにそんなに価値があるなら、
ストーリー形式ではなく、
演説することである。
街頭演説をする必要もなく、Twitterで呟けばいいじゃん。
そんなに素晴らしいならバズるでしょう。
つまり、
ストーリーの目的は、
「Xを言って、世の中を変える」
ことにはないと言っても過言ではない。
Xを主張して世界を変えようとするのを、
プロパガンダという。
映画が最もやってはいけないのは、
このプロパガンダだとすらいえる。
ナチスの映画でもつくってやがれ。
じゃあ、
ストーリーの目的は?
おもしろがらせること、
お土産を持ち帰ってもらうこと、
感動したり人生を深く考えてもらうこと、
だろうか?
少なくとも僕はそのように考えている。
それにどんな価値があるのか?
ただの演説でない、
深いところでの人生の理解は、
物語にしかできないと僕は考えていて、
人生を深く理解できる価値がある、
と言う風に考えている。
なんのためにあなたはストーリーを語るのか?
自己承認欲求?
主張X?
ああ、おもしろかった、よかった、感動した、
人生に対する考え方が、
少しよくなった、
(がらりと変わった、までは行かないだろう)
が、
物語を語る目的だと思っている。
矮小化すれば暇つぶしの道具であり、
拡大解釈すれば、人生の真実を見せることだ。
そして我々はフィクションなので、
完全なる嘘なのに、
なぜかドキュメントよりも真実に迫ったものを、
良くできたストーリーというわけ。
(それはシチュエーションや文脈がリアルなのではなく、
気持ちや人生の解像度が、真実に迫っているものだ)
2023年10月28日
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