2023年10月30日

なぜ演説系はだめなのか

演説系を、
Aという状況を、主張Xの演説だけで、Bに変える、
というものと定義しよう。
つまり行動でなくて、単なる演説で変えるタイプだ。

これの何がよくないか?
いうだけでやらないという説得力のなさがひとつ。
もうひとつあるのは、
反論がないことである。


主張Xをしたときに、
容易に反論がありえる。
これをYとしようか。

ふつうならば、
主張Xに対して、
反論Yがなされ、穴が発見されるが、
さらにそれを補完したX2になり、
さらに別の穴をついたY2がなされ、
それをも凌駕するX3になり……
という状況が続くはずだ。
そうして、穴のない完璧な主張Xになったときに、
はじめて、
Xはすばらしい、Bへ移行しよう、
となると思うわけ。

そして、全員はBにならない。
Xnがどんなによくなっても、
「そうは思わない」という層は必ずいるからだ。
Xが科学的な事実を主張するならば、
疑いの余地はないのだが、
科学的な検証とは無縁な、
現実の何かである場合、
検証できないため、一生「正しさ」というものは確保されない。

ということは、現実において、
Xは「確からしい」「本当っぽい」でしかないわけ。

前に出した例の、
「老けて若い感性がなくなっただけ」
という主張が効果的なのは、
そう気づいていなかった人に対してだけで、
「僕はそうではない」という人たちや、
「老けた感性でもよいと思うものをくれ」という人には、
対応できないわけだ。
だから、状況Bには即ならない。

そういう反論に対して、
じゃあどうなるのが理想なのか、
どうなるのが現実的なのか、
というものをより精度よく詰めていくのが、
議論という行為である。

それらの議論のない演説系は、
「Xなのだ!」
「そうかーなるほどー!」
という、
いわば全員アホなところに、問題がある。
世間は全員がアホではない。
しかし全員をアホとして描いていることに、
リアリティがない、つまりご都合になっているということ。
この場合、ご都合とは、
「意見Xがするっと通ること」だろう。

反論のない主張はない。
人は異なる生き物であり、
あることに対して必ず違うことを考える人がいる。
そういう人たちを想定して、
なるべく多くの人が幸せになるように、
結論を考えていくのが、
沢山の人に出すべきものだ。
物語というのはマスに投下するものだから、
マスがどう反応するかをあらかじめ予測していないものは、
マスに投下する資格がないものだとすらいえる。

もとの漫画は、
おもしろ演説でしかないからいいんだけど、
あれがそのまま物語にはならないよ、
それはなぜか、
という議論こそが、
物語とはどういうものなのか、
ということが理解できるな、
と思ってこうして議論しているわけだ。


演説系は、シナリオでやるべきではない。
そんな簡単に世界は動かない。
もし演説で動くとしたら、
大衆の願望がまずあって、
それに近いことを言ったものがそうなるだろう。
つまりマーケティングがうまい演説、
ということになる。
じゃあ、演説の前に答えは出ているということになるね。

演説だけで世界が変わることはない。
それだけは知っておくといいだろう。


あなたが世間に言いたいことがあり、
それが素晴らしいもので世界を変えるものならば、
物語の演説シーンでやるなんてまどろっこしいことをしていないで、
TwitterでもYouTubeでもやればいい。

それをやる度胸のないやつが、
ひっそりと物語で自己実現して悦にいっているものが、
演説シーンでよくみられる。
当然紀里谷の「キャシャーン」の演説シーンも同じであり、
だから他人のそれは吐き気がするほどみっともないんだよね。
posted by おおおかとしひこ at 01:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック