演説系を、
Aという状況を、主張Xの演説だけで、Bに変える、
というものと定義しよう。
つまり行動でなくて、単なる演説で変えるタイプだ。
これの何がよくないか?
いうだけでやらないという説得力のなさがひとつ。
もうひとつあるのは、
反論がないことである。
主張Xをしたときに、
容易に反論がありえる。
これをYとしようか。
ふつうならば、
主張Xに対して、
反論Yがなされ、穴が発見されるが、
さらにそれを補完したX2になり、
さらに別の穴をついたY2がなされ、
それをも凌駕するX3になり……
という状況が続くはずだ。
そうして、穴のない完璧な主張Xになったときに、
はじめて、
Xはすばらしい、Bへ移行しよう、
となると思うわけ。
そして、全員はBにならない。
Xnがどんなによくなっても、
「そうは思わない」という層は必ずいるからだ。
Xが科学的な事実を主張するならば、
疑いの余地はないのだが、
科学的な検証とは無縁な、
現実の何かである場合、
検証できないため、一生「正しさ」というものは確保されない。
ということは、現実において、
Xは「確からしい」「本当っぽい」でしかないわけ。
前に出した例の、
「老けて若い感性がなくなっただけ」
という主張が効果的なのは、
そう気づいていなかった人に対してだけで、
「僕はそうではない」という人たちや、
「老けた感性でもよいと思うものをくれ」という人には、
対応できないわけだ。
だから、状況Bには即ならない。
そういう反論に対して、
じゃあどうなるのが理想なのか、
どうなるのが現実的なのか、
というものをより精度よく詰めていくのが、
議論という行為である。
それらの議論のない演説系は、
「Xなのだ!」
「そうかーなるほどー!」
という、
いわば全員アホなところに、問題がある。
世間は全員がアホではない。
しかし全員をアホとして描いていることに、
リアリティがない、つまりご都合になっているということ。
この場合、ご都合とは、
「意見Xがするっと通ること」だろう。
反論のない主張はない。
人は異なる生き物であり、
あることに対して必ず違うことを考える人がいる。
そういう人たちを想定して、
なるべく多くの人が幸せになるように、
結論を考えていくのが、
沢山の人に出すべきものだ。
物語というのはマスに投下するものだから、
マスがどう反応するかをあらかじめ予測していないものは、
マスに投下する資格がないものだとすらいえる。
もとの漫画は、
おもしろ演説でしかないからいいんだけど、
あれがそのまま物語にはならないよ、
それはなぜか、
という議論こそが、
物語とはどういうものなのか、
ということが理解できるな、
と思ってこうして議論しているわけだ。
演説系は、シナリオでやるべきではない。
そんな簡単に世界は動かない。
もし演説で動くとしたら、
大衆の願望がまずあって、
それに近いことを言ったものがそうなるだろう。
つまりマーケティングがうまい演説、
ということになる。
じゃあ、演説の前に答えは出ているということになるね。
演説だけで世界が変わることはない。
それだけは知っておくといいだろう。
あなたが世間に言いたいことがあり、
それが素晴らしいもので世界を変えるものならば、
物語の演説シーンでやるなんてまどろっこしいことをしていないで、
TwitterでもYouTubeでもやればいい。
それをやる度胸のないやつが、
ひっそりと物語で自己実現して悦にいっているものが、
演説シーンでよくみられる。
当然紀里谷の「キャシャーン」の演説シーンも同じであり、
だから他人のそれは吐き気がするほどみっともないんだよね。
2023年10月30日
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