2024年01月12日

極論すると、人はストーリーを見ていないのでは

すらあるのでは、と最近はぼーっと考えている。


実際にストーリーのないものを見てもつまらないから、
ストーリーはないとダメだ。
焦点がはっきりし、因果関係がきちんとした、
タイトなストーリーである必要がある。

しかし実際のところ、
人々が「見たいもの」は、
ストーリーそのものではなく、
各キャラクターの「感情」ではないか、
と最近は思っている。



たとえばBLでは、
お品書きというか、
これはこういう感情を描いたものです、
が表紙に書いてあることが多い。
A×Bもので、女体もので、NTRなどだ。
つまり性癖明示というわけ。
AVのジャンル分けよりも更に細かくつけられてるね。

さらにたとえばシチュエーション萌えというか、
Twitterから拾った言葉で言うと、
「手首の傷跡が繋がる百合が見たい」
なんて「見たいものを限定する」
言い方がある。

当然、そこにある感情、
「手首を切るようなメンヘラな気持ちと、
それでもそれを合わせ鏡のようにつなげる気持ちの、百合」
「絶望の中でのあたたかさ」
みたいな感情をこそ見たいわけ。
(それが上手い絵ならなおよし)

界隈では、このように、
「見たいもの」の言語化が頻繁に行われ、
なんなら検索できるようになっていると思う。

その感情は点だけど、
ある種の線を持つ、
いわば動画レベルの長さの、
ひとまとまりの感情だ。


実のところ、人が見たいのはこれなのかもな、
などと最近よく考える。


ストーリーとは、
それを都合よくいろんなものを繋ぐだけの、
接着剤のようなものでしかないのではと。
主客の転倒というか、
つくる順番が違うんだけど、
ストーリーという基礎工事の上にある、
ある感情というメインディッシュしか食べないのだな、
という感じ。


だから、
映画の感想というのは、
「ストーリーが良かった」ではなくて、
「○○(の演じる○○役)がよかった」と、
感情の発露先になるのではなかろうか。

我々は玄人なものだから、
ついそれは、これこれこのようなストーリーの仕掛けによってもたらされた、
必然的な感情であり…
などと設計側から考えてしまう。

しかしほとんどの人にとって、
家が内装でしかないように、
基礎工事や骨格設計は、
見えていないのだろう。



ウリは?
という、いつもよく分からない問いがあるけれど、
実のところこれはストーリーやテーマや構成や、
メインプロットやサブプロットの関係などではなく、
「そこにある主たる感情」なのでは?
と、最近考えている。

だから、「泣ける映画」とか、
「ラブラブになれる映画」とか、
「恐怖の10分間」とか、
「憧れの彼とドキドキなシチュエーション」とか、
そこに入る感情の種類を、問う問いなのでは?
と最近思う。

絢爛豪華な衣装とか、
CGすごいとか、
アクションとか、
目立つガワももちろんあるだろうけど、
実のところそこはウリという内容に入らずに、
主たる感情を売っとけばウリになるのでは?
などと最近考えている。


だから、
起承転結を人は求めているわけではない。
オチに落ちる見事さを人は求めているわけではない。

燃えるような感情や、
自分が自分でなくなる感情や、
ジェットコースターのような感情を、
求めているだけのことで、
実はそれはストーリーによって励起されていることにすら、
気づいていない可能性がある。


ということは。

「これはここにしかない、クソデカ感情」
をつくればいいわけだ。


もちろんそれストーリーという基礎工事ができて、
はじめて咲く花なのだが、
人は花しか摘まない。

もし、
オリジナリティというのなら、
そのクソデカ感情をこそ、
追求すべきでは?
などと、
最近考えている。


(なぜ邦画の予告編では、
人が良く叫ぶのか?の答えがこれではないかな。
叫ぶのは強い感情だから、
他の微妙な感情よりウリになると考えられるからでは?
いや、だとすると、邦画のレベルは低すぎないか、
などと考えてしまう。
理論的にここまで考えてるわけではなく、
適者生存の理によってこの形になっただけなのだろう。
それを何故かと立ち止まって考え、
言語化してる人がいないだけなのかもだ)
posted by おおおかとしひこ at 05:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック