物語を見るときに、
「結論を欲して」見るわけではないだろう。
「おもしろそうだ」や、
「こういう世界観」や、
「感情移入しているキャラクター」や、
「このキャラ好き」で、
見ているのではないだろうか。
そしてそれは「結論を欲して」いるわけではない。
我々が脚本を設計するとき、
結論からの逆算でつくるものである。
結論がもっとも鮮烈になるように、
もっともすとんと腹に落ちるように、
前提や展開を考えて、
しかも容易に察せられないように、
ひねりを加えて、ツイストをかけるわけだ。
前提は結論のためにあり、
結論の前提として必要十分かつ、
興味を引くものとして、
ファーストシーンがある。
そして、
すべてのシーンは、
センタークエスチョンにイエスと答えるためにあり、
すべての人物の行動は、
目的達成のために最善手を打つ。
つまり、
すべてのストーリー進行は、
結論へ向かうための途中段階であり、
「この焦点をクリアできるのか?」
に集中させて、
ターニングポイントでそれを曲げながら、
最終的に結論へなだれこむように設計する。
無駄があってはならない。
結論への最善手に見えないからだ。
「それを言いたいならこれは要らなくない?」
ってなるのは、
どこか寄り道をしたり、
コーナーで膨らんでいるわけ。
しかし、この論理最短ジェットコースターを、
観客は第一に欲しているわけではないことに、
注意されたい。
もう一度冒頭のものを繰り返すと、
「おもしろそうだ」や、
「こういう世界観」や、
「感情移入しているキャラクター」や、
「このキャラ好き」で、
見ているのではないだろうか。
つまり、
ストーリーではなく、
シチュエーション、世界観、キャラクターの、
静的、点なるものを、
欲していることに注意されたい。
「それでしか得られない栄養分がある」
というのはミーム的な流行りだけど、
そこにしかない世界、キャラクターを摂取するために、
ストーリーを見ている人がいる。
だけど、
ストーリーを提供する側は、
静的な点としてそれをとらえていなくて、
動的に、刻々と変化する焦点の集合体としてとらえていて、
しかも結論へ至る道筋、最善ルートとして、
ストーリーをとらえている。
つまり。
表面的なもの、ガワ(世界観、キャラ、設定)が欲しい観客。
それだけではストーリーにならないため、
ストーリーを夢中になるようにつくり、
結論への着地の見事さ、用意周到さをつくる脚本家の間に、
まったく理解しあえない溝がある。
観客はつまり、
ストーリーがどうあれ、
どのようなものであるか認識していない。
認識しているのはキャラクターだ。
もちろん、
「この結論を得るためにこのストーリーをみよう」
などとも思っていないわけだ。
逆算からつくっている脚本家、
点の集合体としてしか見ていない観客。
この差を認識しておくことだ。
じゃあガワだけやってて、
ストーリーなどどうでもいいかというと、
つまらないストーリーはつまらないんだよね。
どんなにガワが魅力的でもね。
だから、
魅力的なガワと、
魅力的なストーリーの、
両方が必要なのだ。
だが、観客はよいストーリーを、
注文できるほどの言葉、専門知識をもっていないので、
キャラでしか判断できないということだ。
キャラがよいと思ったが、
いまいち夢中になれないのは、
キャラがよくなくなったか、
ストーリーがつまらないかのどちらかであるが、
観客からはどちらかは分別できないということである。
かように、
ストーリーというのは目に見えてない、
存在しないものである。
だから、とらえることがとても難しく、
書くことがとても難しいのだ。
ストーリーを捉えるのは簡単だ。
「その時点で早急にしなければならないこと(焦点)」を、
各時点で書き出して、リスト化することだ。
それによって、
おおまかな構造を知ることができる。
観客は結論を欲していない。
しかし結論の出ないストーリーはつまらないという。
なんという見えていなさだろうか。
我々のやるべきことは、
完璧なキャラクターや世界観やシチュエーションをつくり、
しかも完璧なストーリーをつくることだ。
しかし前者しか評価されないという、
とても矛盾した世界に生きているわけだね。
結論はあくまで出口だ。
出口を見てから入口に入る人はいない。
どんなに素晴らしい結論だとしても、
(それが見えていない)入口から入ってこないならば、
たどり着けないということさ。
つまり、
入口も魅力的にして、
点も完璧にして、
線も完璧にして、
結論も見事にしないといけない。
そして、結論を知らないかのように、
頭からぐんぐん引き込まないといけない。
難易度? めちゃくちゃ高いよ。
2023年11月19日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック