経験則。
僕は学生映画出身で、
しかも京大の学生サークルだったもんだから、
賢くて頭の回る集団の中でいろいろやっていた。
だけど学生のやることには限界があり、
プロになったらどんなにこの伸び代が伸びるのだろう、
と期待して上京した。
だけど社会に出てわかったことは、
社会人の半分は馬鹿ということである。
その会社、業界に平均的な頭の良さがあるとして、
半分はそれに満たない馬鹿で、
半分はそれより賢い人なわけ。
そして、学生時代なみに頭の回転がある人は、
僕は数人しか出会ったことがない。
で、上の方はまあいいとして、
問題は半分以下の人たち。
こうした人たちが、
自分の書いたシナリオや企画について、
「わからない」などと難癖をつけてくることが、
かなり多い、
という話をしておきたい。
映画やCMをつくるプロ集団とはとても思えない、
企画を理解しない人がこんなに多いのか、
とびっくりすることはとてもよくある、
ということだ。
いやしくもそういうものを作るなら、
過去の何かしらの名作のことは知っていて、
「あーそれはあれのパターンね、なるほど」とか、
「それは今までなかったパターンだ」とか、
「それはあれのパクリじゃねえか」とか、
ハイコンテクストな話が出来ると思っていたが、
半分以下はそんな話はできない。
どういう話し方をするかというと、
「私には理解できない」となる。
たとえば、映画「いけちゃんとぼく」のシナリオ段階では、
角川映画のプロデューサー陣が、
次回製作の映画シナリオを読むのだが、
大半の人(7〜9割?)が、
「いけちゃんの正体は誰?」と、
犯人探しのように聞いてきたのだそうだ。
「○○○○○である」(詳しくは伏せます)と、
原作通りの設定を踏襲していたのだが、
「役名がないから、
これまで登場してないよく分からない人」
ということになり、
じゃあ役名をつくるぞ、となって、
無理やり「池子」という役名にした記憶がある。
つまり彼らにとっては、
ミステリーの犯人探しのように、
「あー!最初のシーンになにげなく出てた医者、
アイツが犯人だったのかー!」
と驚きたい、ということだ。
そういうやり方ではない、
新しい「正体」である、
ということを理解できない人たちが、
半分以上いる、
ということに僕は衝撃をうけたわけ。
この事実をもって、
「角川映画のプロデューサーはレベルが低い」
というつもりはない。
僕が言いたいのは、
「どんな集団でも、半分は平均以下がいる」
ということである。
そしてそれは、観客も同じということだ。
クリエイターは、さまざまなご意見をいただき、
さまざまな解釈を披露され、
さまざまな誤解にさらされる。
そのシミュレーションである、
ということを肝に銘じておけ。
「映画をつくる集団だから、
映画に通暁して先を読める人々」であるのは、
平均の半分以上にすぎないということ。
これは観客も同様ということ。
だから、
半分以上が「わからない」ということは、
観客も同様という可能性が強い、
ということ。
そのせいで、映画「いけちゃんとぼく」には、
いけちゃんの誕生シーンをつくらなくてはならなくなった。
果たしてあれが正解だったかはなんともいえない。
不思議な存在でよかったと思うんだがな。
そういう「想像力に訴えて、抽象的に理解する」が、
できない人が半分以下いるということだ。
「具体的なものを見せろ」とは、
そのようなことも含んでいるわけ。
試写会の映画批評家を招いたときに、
ある批評家が「池子を主人公にして、
ラストシーンに向かうまでの物語にすればよかったのに」
という話もあった。
そんな真裏のスピンオフ、原作無視やんけ。
原作「いけちゃんとぼく」は、
「ぼく」の話であり、「いけちゃん」の話ではない。
その主副を逆転せよとは、
あんた普段どういう見方をしてるんだって思ったよ。
たぶん、人はCGに感情移入できないんだよ。
だから僕はいけちゃんを物理のコマドリでやりたいって言ったのだが、
予算の関係でできなかった。
今思えばいけちゃんだけ手書きのセルアニメでよかったかもな。
具体的なブツと、具体的なブツが、
どう絡むかが映画である。
僕はそんな風にまで、
ソリッドに抽象化を落として考えたことはなかったな、
という経験談だ。
つまり、
シナリオとは、抽象化はいらないのだ。
あれをこれに抽象化したとか、
これをあれにまとめたとかは、評価されない。
具体的なブツと、具体的なブツが、
どう絡むかしか、理解されないと思った方が良い。
もちろん、世界の半分は賢い人なので、
抽象化した部分を楽しむことができる。
しかし世界の半分は平均以下の人で、
具体しかわからない人だ。
プロデューサー陣は観客のサンプリングである。
具体的なブツで話をしなければならない。
角川のレベルが低いわけではない。
マスの観客というのは、
そういうものだ、という意識を持てということだ。
テレビは馬鹿が見るものである。
つまり世界の半分以下に合わせた番組作りをしていて、
世界の半分以上はネットを見ている。
その、どちらもを観客にすることを考えよ、
ということである。
たとえば「幽霊もの」は、
「存在するかしないかわからないこと」について書くことは出来ない。
具体的なパペットゴーストを退治する、
ゴーストバスターズになるということだ。
最後まで「幽霊はいたの?」になることは出来ず、
どこかから「具体的な正体を表した、
人間の演じるゴーストが登場して、
後半はそのぶつかり合いになる」
に、早晩なるべきだ、
ということだ。
世界の半分以下は、それでしか楽しめない。
それをメインプロットに持ってきながらも、
サブプロットで「幽霊は存在するのかなあ」
と、世界の半分以上の賢い人がうなづくサブストーリーを、
同時進行するべきだね。
「そんな阿呆な話で良いのか」と賢い人はためらう。
だけど世界の半分は、
「そんな難しい話はわからない、いらない」
なのだ。
マスの観客には色々いて、
どの人も同じ部分に「よい」というわけではない。
複合的な編み物として映画シナリオを考える時、
メインプロットとサブプロットの役割をわけつつ、
それらを編み上げて全体を構成するべきなのだ。
そして当然だが、
どのパートも面白いのが、
理想のシナリオである。
今後あなたたちがシナリオを書き、
実際につくっていくときに、
意外な馬鹿が「ここがわからない」と、
根本的な理解不能性を告白することがあろう。
その度に足払いを食らい、
転倒して頭を打って再起不能になるべきではない。
「ああそうよね」と柔らかく受け止めて、
世界の半分はこれを理解しないことを知り、
それでも楽しめるような仕掛けを用意するような、
受け身を取れるようになっておくことだ。
あなたのやろうとすることは新しい。
だから新しいところを理解できる人は一部である。
残りの半分、残りの9割は、
別のところで楽しませてあげなさい。
あなたはディナーショーをやっている。
馬鹿しか座ってないテーブルの前でも、
チャーミングな芸をやってあげるべきだ。
2024年01月20日
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