2023年12月01日

新しいストーリーとは、新しいキャラクターのこと

と極論してみる。


ほんとうに人々が、新しいストーリーを求めているのだろうか?
たぶん違うと思う。
いや、ほんとうには新しいストーリーを求めているんだけど、
自覚していないと思うんだよな。
だって、
いまだに勧善懲悪やヒーローものは面白いし、
それを逆手にとったダークヒーローも面白いし、
片思いの話は面白いし、
三角関係の話も面白いからね。
悪いことしたやつを暴いてく話も面白いし、
怖いものに追いかけられる話も面白い。
悲しい過去を背負った人の悲劇も面白いし、
苦労してついに勝利をつかむ話も面白い。
人々がこれらに飽きて、次のまったく新しい形のストーリーを求めているとも思えない。
人々が喜ぶストーリーにはいくつか型、原形があり、
それらと同じものか、せいぜいアレンジを求めているに過ぎない、
といっても過言ではない。

いや、まったく新しいパターンなのだ、
は時々ある。
たとえば「メメント」というストーリーの逆行する話は新しかった。
あるいは語る順番をバラバラにする「パルプフィクション」なんかの当時は新しかった。
でも鑑賞後は、これらはふつうのストーリーが中にあることが分っている。
つまり、時系列を起きた順番に並び替えることが出来て、
そうするとまあ類型に入る普通の話かな、
になる。

ある時から急にループものが流行ったことがあり、
これも新しいパターンだった。
しかし、ループするストーリーは、
結局「因果から逃れられない」みたいな宿命を描くことしかできなくて、
たいていバッドエンドになるため、
それにも飽きてしまったよね。

つまり、新しいストーリーが出ると、
そのパターンは模倣され、消費される。
人々が、その「新しいパターンをよこせ」と言っているわけではなく、
「新しいぞ、面白いぞ」に反応しているだけとも言えるだろう。

で、それは滅多にないから、
それが新作に要求されることはあまりない。
出てきたら消費するぞ、でしかないわけだ。
つまり、人々が普段求めているものは、
それではない。
じゃあ何かというと、
わかりやすく「新しいキャラクター」ではないかと思うんだよね。

まったく新しい人が彗星のように登場して、
人気者になる確率はかなり低い。
毎年何人芸能人がデビューするというのだろう。
どれだけのユーチューバーがデビューして、
消えていくというのかねえ。
宝くじと似たようなものだろうね。
だから、
大抵は「すでに人気の実績がある人」が、
「人気のまま出る」か、
「ちょっとアレンジして出る(〇〇役に挑戦!)」
で、
人々を呼ぶわけだ。
「なるほど、それなら期待できそう」というものは、
つまり、
知っている人のちょっと違う感じ、
でしかないということだ。

まったくの新人や、まったくの新しいストーリーのパターンは、
それがどれだけ良くても、
期待される内容には入っていないわけ。
にもかかわらず、
本当に魅力的な新人が出れば大爆発するし、
まったく新しいストーリーが出てきたら、
新鮮で真似されまくるわけ。
このコントロールは難しいよね、
という話をしようとしている。

「それは確実に儲かるんですか?」
という投資者に対して、
この新しい要素をプレゼンしても保証できないだろう。
だから、保証になりやすい、
人気芸能人の新規キャラクター、
という面が強調されて、
昨今の映画はつくられてきた。
だからこそ、
似たようなものばかりになり、
冒険が少なく、つまらなくなっている。
逆に、新しい何かをつくる実力や体制が少なくなっているともいえる。

だからこそ、
新しいストーリーが潜在的に求められているはずだが、
それは宣伝内容としてとても難しい。

妥協でできるのは、
新しい世界観だろうか。
見たこともない映像は、
CGの発達によって可能になった。
だけどもう「大体見た」に飽和しつつあって、
新しい表現なんてほとんどなくなっている。

じゃあ、なんなんだろう。
僕は、
「コンセプト」がよいと考えている。
つまり、
「これはこういう映画です」というのが、
強い一行で示せるタイプのやつだ。
何がいいかというと、日本語でそれが言えるところだ。
「転覆して上下が逆になった沈没船から脱出するんです」
というコンセプトは「ポセイドンアドベンチャー」である。
こういう感じが「面白そう」というワクワク感があるわけ。
ちなみに、リメイク版じゃなくて、オリジナル版を見たほうがよい。
オリジナル版には、
神の信仰の話や、自己犠牲の話が絡まり、
命とはなんだろう、と考えにふけるような、
人間たちのサブプロットが豊富である。
コンセプトはパニック脱出劇なのに、
その本体は人間ドラマになっている、
というのがこの映画の優れたところで、
まったく新しいコンセプトが人を引き、
中身の人間ドラマが満足させる、
という構造になっている。
満足するのは人間ドラマなのに、
人はそれを欲しいと言えない、
というのがこの話の本質である。

だから、
キャラクター、シチュエーション、コンセプト、
どれも一発で伝わる何かを、
持っていることが、
押しが強くていいよ、
ということを言おうとしている。

これを用意するのは、
脚本家の仕事だろうか?
僕はよくわかっていない。
ある中身、ストーリーを、
こうしたガワで装飾することが、
売りを考えるプロデューサーの仕事だと思っているが、
そんなことを考えている人はあまりいないようだ。
(ほとんどの人は、「売りの要素が入っているか/入っていないか」でチェックするだけの、
チェック要員でしかないことがある。
それが効果的に機能しているか/していないかすら、
チェックしていないこともある)

なので、
僕は脚本家がそこまで考えたうえで、
つくりあげるべき、
だと最近は考えている。
両方作るのはなかなか難易度が高いが、
だからこそ、逆にできたときによいのだ。

ということで、
コンセプトが一番求められているのだが、
まずはキャラクターが求められていることを知ろう。

魅力的な新キャラクターさえ脚本にいれば、
それは売りになっていくぞ。

シチュエーションやコンセプトは誰でもつくれるが、
キャラクターやストーリーは脚本家しか作れない。
どんどんオリジナルで魅力的なキャラクターをつくり、
それらを新しいコンセプトで表現できるような、
ストーリーをつくるのだ。
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posted by おおおかとしひこ at 11:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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