2024年02月05日

「どうしてそう思ったか」には理由がいる

現実にはそんなことはない。
人間というのはふと何かを思いついたりするものだ。
だけどフィクションの劇ではそうではない、
ということを知っておくとよい。


天啓がやって来るでもいいし、
ふと気が変わるでもいいし、
なぜかそう思う、でもよい。
人が次に何を考えるかは、
理屈ではない部分もある。
虫の知らせで飛行機に乗らず、それが落ちたという話もあろう。
これまでの流れとは関係なく、
人は何かを思い、考え、思いつき、
突然「思う」ことはよくある。

しかし、それはフィクションの劇にあってはならない。
なぜかというと、「唐突」だからだ。

逆にいうと、
フィクションの劇には、
唐突があってはならない。
すべては理屈や理由があり、
必然的に流れていくものである、
という前提がある。

だから、
何かを思いつく場面ならば、
必ず「なぜそれを思いついたのか、ヒントになる場面」が伏線としてあるはずだ。
気が変わってしまう場面ならば、
その理由が推測できる、納得できる、
前の場面があるはずだ。
「AだからB」という因果で、
フィクションの物語というのは結ばれている。

たとえば、
ヒロインがなぜ主人公に惚れるのか?
という理由は必ずつくっておくべきで、
観客がそれに納得する必要がある。
「〇〇だから惚れたのだ」と腹落ちする必要がある。
そうでなければ、ご都合に見えるからである。


つまり、
フィクションという物語は、
現実と違って、
すべてが説明できる、科学的な構造をしているべきだ。

偶然が作用することはなく、
突然気が変わることはなく、
理不尽なことで台無しになることはない。

すなわち、
物語の登場人物には「思う」自由がない、
といっても過言ではない。
すべては理由があるから、
「そう思うのは当然だ」という流れが存在する、
ということだ。

これを破ると、
突然心変わりしたり、突然前の発言を無視して動いたり、
理屈でとらえられないものの連続になってしまう。
それは変だ。
現実ではままあるこれらのことは、
物語では変だということを知っておくとよいだろう。


たまたま今読んでいる小説で、
「ふと、〇〇は〇〇と思った」なんて描写があって、
これは小説にゆるされている特別な表現だなあ、
と思った。
脚本ならばこれはない。
思うことはすべて必然である。
〇〇と思うことは、すでにある要素から考えて当然、
必然、論理的帰結であるべきだ。
だから説明の必要がないのである。

その小説でも、そこそこの説明があって、
言い訳っぽいなあと感じた。
小説は地の文でいくらでも言い訳可能だが、
地の文のない脚本は、
人物の声と動作しか情報源がない。
それらが当然そうなると思えるほどの流れは、
突然ランダムに出てこなくて、必然である。

つまり、フィクションとは運命論なんだな。
ある人物の置かれた初期状況と動機があれば、
すべては運命にのっとって動いているわけだ。
そこに量子力学のような偶然が作用することはなく、
計画的に運命が進むんだね。

だから、首尾一貫性とか、
論理性とかが求められるのだ。
なぜか、と言われるとよく分らないが、
わざわざバラバラの首尾一貫しないものを見るよりも、
説明可能で理解可能な、
すべてが一本の流れになっているものを見るほうが、
「心地よいから」ではないだろうか。

内部を説明できる一人称が存在しない、
三人称である脚本スタイルでは、
当然そうなるに違いない。


ということで、
フィクションでは、
突然気が変わったり、思いついたり、
計画にないことをやったり、しない。
リアルとは違う部分であることを自覚しているとよい。

逆に「どうしてそう思ったか」の場面があるか、
チェックしていくといいかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 01:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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