長いこと人生をやっていると、
人間の限界というか、人生の限界を知る機会がたくさんある。
あの人は結局期待したほどではなかったとか、
あんなに可能性があるように見えたのにぽしゃってしまったとか、
あれほどでもここまでどまりか、とか、
人間一人の限界もあるし、
チームの限界が見えることも多々ある。
ああ、人生ってこんなものかー、と思う瞬間というかね。
だから、フィクションは、それを超えるのだよ。
リアルな人生って実は思ったほど何もできないよ。
だから、もっとできる人生をみな望むのだよ。
人生に挫折した人ほど、
挫折しない人生や、挫折しても立ち直る人生を、
見たがるのだよ。
もちろん、リアリティがなければ説得力がない。
だから、たくさんの人生を知ることはとても良い。
人生を知るとは、
人間の限界を知ること、
人間たちの限界を知ることでもある。
それを踏まえて、
ご都合じゃない人生を描くことは出来るだろうか?
出来たら、フィクションとして、
面白くなるだろう。
あり得て、しかも願望を越えてゆく、
主人公を創作できるに違いない。
だから主人公は、我々にない特殊能力があるのだ。
人懐っこくてネットワークを築くとか、
少しだけ体力があるとか、
人のいいところに気付くとか、
そういう「我々の能力の延長」でだね。
それがあったら、これまで見てきた限界の人が、
それを越えられたかもしれない、
と思う何かの能力だ。
特殊能力といっても、5メートルジャンプできるとか、
地球破壊能力を持っている必要はない。
人生で少しだけあれがあればよかったのに、
と思える、
他の人でももっているものや、
他の人でも持っているが1%だけ上回る能力とか、
そのくらいがリアルだろう。
その、少しだけ嘘の部分で、
嘘のストーリーは成功するのだ。
だから、自分にないその能力があればいいなあ、
と人は思い、
ちょっとだけそうやって振舞ってみるかな、
と真似をするのだと思う。
ヒーローのように優れていなくてもよい。
少しだけ能力があるだけで、
人生の主人公になれる、
というのはフィクションの常道だ。
そういう風につくると、
リアルな人生と、フィクションの物語の距離感がつかめる。
飛び過ぎている特殊能力は、完全にフィクション側、
リアルな人生の能力は、リアル寄りのフィクション。
どちらでもよい。
そこはグラデーションがあるに違いない。
インド映画はかなり前者寄りで、
後者寄りになっているハリウッドや邦画を、
軽々と越えてゆく。
邦画は後者で勝負するものが多いだろうが、
それでもグラデーションがあると思う。
人生には限界がある。
だから、限界が少しだけ延長された、
別の人生を楽しみたくなる。
「もし〇〇な能力があったら」
という仮定は、ヒーローや超能力ものだけじゃないんだよ。
フィクション全部がそうなんだ。
「もし他人の喜怒哀楽を、少しだけ沢山感じる人がいたら?」
くらいでもいいんだよ。
きっと誰かの悲しみによりそって、
誰かと一緒に戦う人になるんじゃないかな。
そんなこと出来るわけがないよ。
でも出来るやつがいるとしたら?
そいつが主人公だ。
2024年02月11日
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