2024年02月11日

人生の限界

長いこと人生をやっていると、
人間の限界というか、人生の限界を知る機会がたくさんある。


あの人は結局期待したほどではなかったとか、
あんなに可能性があるように見えたのにぽしゃってしまったとか、
あれほどでもここまでどまりか、とか、
人間一人の限界もあるし、
チームの限界が見えることも多々ある。

ああ、人生ってこんなものかー、と思う瞬間というかね。


だから、フィクションは、それを超えるのだよ。

リアルな人生って実は思ったほど何もできないよ。
だから、もっとできる人生をみな望むのだよ。

人生に挫折した人ほど、
挫折しない人生や、挫折しても立ち直る人生を、
見たがるのだよ。
もちろん、リアリティがなければ説得力がない。
だから、たくさんの人生を知ることはとても良い。
人生を知るとは、
人間の限界を知ること、
人間たちの限界を知ることでもある。

それを踏まえて、
ご都合じゃない人生を描くことは出来るだろうか?

出来たら、フィクションとして、
面白くなるだろう。
あり得て、しかも願望を越えてゆく、
主人公を創作できるに違いない。

だから主人公は、我々にない特殊能力があるのだ。
人懐っこくてネットワークを築くとか、
少しだけ体力があるとか、
人のいいところに気付くとか、
そういう「我々の能力の延長」でだね。
それがあったら、これまで見てきた限界の人が、
それを越えられたかもしれない、
と思う何かの能力だ。

特殊能力といっても、5メートルジャンプできるとか、
地球破壊能力を持っている必要はない。
人生で少しだけあれがあればよかったのに、
と思える、
他の人でももっているものや、
他の人でも持っているが1%だけ上回る能力とか、
そのくらいがリアルだろう。

その、少しだけ嘘の部分で、
嘘のストーリーは成功するのだ。

だから、自分にないその能力があればいいなあ、
と人は思い、
ちょっとだけそうやって振舞ってみるかな、
と真似をするのだと思う。

ヒーローのように優れていなくてもよい。
少しだけ能力があるだけで、
人生の主人公になれる、
というのはフィクションの常道だ。

そういう風につくると、
リアルな人生と、フィクションの物語の距離感がつかめる。
飛び過ぎている特殊能力は、完全にフィクション側、
リアルな人生の能力は、リアル寄りのフィクション。
どちらでもよい。
そこはグラデーションがあるに違いない。

インド映画はかなり前者寄りで、
後者寄りになっているハリウッドや邦画を、
軽々と越えてゆく。
邦画は後者で勝負するものが多いだろうが、
それでもグラデーションがあると思う。

人生には限界がある。
だから、限界が少しだけ延長された、
別の人生を楽しみたくなる。
「もし〇〇な能力があったら」
という仮定は、ヒーローや超能力ものだけじゃないんだよ。
フィクション全部がそうなんだ。
「もし他人の喜怒哀楽を、少しだけ沢山感じる人がいたら?」
くらいでもいいんだよ。
きっと誰かの悲しみによりそって、
誰かと一緒に戦う人になるんじゃないかな。


そんなこと出来るわけがないよ。
でも出来るやつがいるとしたら?
そいつが主人公だ。
posted by おおおかとしひこ at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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