2024年02月16日

それがそこなら、あれはここ

という感覚の話。


言語化がなかなか出来ないんだけど、
「頭の中で妄想したもの」と、
「現実にそれがあるもの」はかなり異なることが多い。

妄想と現実は違う、
と簡単に行ってしまうことはすぐできるが、
だとしたら我々フィクションの作り手は、
現実だけ見てろよ、となってしまう。
リアルとファンタジーの間、
フィクションはどこにあるのか、
どうやったら出来るか、ということに我々は興味があるわけで、
現実をみろ、ファンタジーは捨てるのだ、
ということなら存在意義がないし、
フィクションの面白みを伝えることができなくなってしまう。

その思考停止を抜け出るために、
考えるわけだ。
ファンタジーとフィクションの差はなんだろう?と。

毎度出す例があって、
「第一回エアセックス世界大会童貞部門」の話だ。
エアギターがブームの頃、
みうらじゅんがエアセックスを芸にしたら面白いのではないか、
となって、
経験者部門と童貞部門に分けたところが面白かった。
経験者部門はAV男優から街の巧者まで揃ったらしいが、
まあそれはおいといて、
興味深いのは童貞部門なんだよね。
「ありえない位置におっぱいがある」とか、
「それはできない体位である」みたいなことが連発したらしい。
つまり、女体を見たことがないし、
触ったこともないから、
女体の現実味がなく、
「想像上のファンタジー」としてしか、
女体をとらえていない、というのが面白かったわけ。

これが童貞だと笑うのは簡単だが、
我々の想像する物語が、
こうではないという保証はない。

自分の頭の中にだけしか存在しないものが、
童貞の想像上の間違ったおっぱいと、
どう違うのか、どうやって証明できるのか?
という話だ。


知らない土地へ旅行することを考えよう。
京都を例にとるか。

京都観光したい人は、
清水寺へ行きたい、金閣寺へ行きたい、渡月橋と伏見神社へ行きたい、
なんて、ガイドブックを見ながら妄想する。
それはファンタジーの京都旅行である。
頭の中にしか存在しないわけ。
で、「これを一日で回る」イメージをするんだね。

京都人ならば、
この計画にどれだけ無理があるか、
すぐに想像できる。
それは無理やと。
三か所回れるかな。それも保証できないね。

何が違うのか?ということだ。

現実を知っている人は、
点と点の距離感を知っている。
つまり、要素間の関係性を分かっているわけだ。

清水寺から金閣寺へ行くには、バスだと30分はかかるかなあ、
一発で行けないから乗り換えがいるかも、
なんて考えるし、そこから嵐山の渡月橋まで直通なんてないから、
1時間はかけないと無理かな、とか考える。
無理やり詰め込むことは可能だけど、
そこでじっくり見ている余裕なんてまるでなくて、
伏見に行こうと思ったらそこから1時間で行けないだろうなあ、
しかもそのあと軽い山登りみたいなものだから、
体力が持たないだろうなあとか。

ものごとは点だけでは存在しない。
金閣寺から清水寺に行くには、
京大の近くを通りながら東大路を南下し、
丸太町、四条を過ぎて八坂神社に至り、
五条あたりの清水口から東山の中に入りようやくだ。
そういう他の要素との関係性(この場合は位置関係だが)があるわけ。

点と点の関係ではない。
自転車で下れば北から南は下り坂(鴨川の流れる方向)だから簡単だが、
逆に北上は緩やかな上り坂だから、
自転車だと無理筋だな、
とか、京都で暮らした人ならば予測できる。
そういう関係性もある。

そうしたことが、
点と点だけになってしまうことが、ファンタジーだ。
つまり、
おっぱいをなめながら、あり得ない位置の下をさわる、
という童貞のようになっているわけだ。


フィクションとは、
これらを分っていた上で、
嘘をつく行為をいう。

清水寺から金閣寺を、たとえばワープするのだ。
リアルだと30分かなあ、というところに、
全然違う原理を入れること、
関係性を頭の中で(嘘を使って)再構築することが、
フィクションだと定義してもいいかもしれない。

それがそこにあるなら、
あれはここにあるはず。

そういう関係性の感覚というのが、
現実にはある。

だからできない、と現実では考えるが、
こういう嘘を一つだけ認めるならば、
可能になるね、
というのがフィクションだ。

だめなファンタジーはその嘘という道具を使わずに、
ただ点と点で間違ったことをやり続けることだと、
この文脈では定義できる。

おっぱいを舐めながらあり得ない位置の下をさわることは、
リアルな女体では不可能だが、
VRという嘘なら可能かもしれないし、
3Pで違う人のそれなら可能かもしれないし、
ロボットや宇宙人ならそれが可能かもしれないわけ。

じゃあ、
どういう嘘で点と点の関係性を成立させていますか、
ということが、
フィクションなんだよな。


で、フィクションには基本ルールがあって、
二つ以上の嘘を使わないこと、
というやつさ。

ひとつ大きな嘘をつくならば、
あとはリアルの関係性を使おうぜ、
ということだ。

ワープ可能である、という大きな嘘をつくことができたら、
京都のそのコースは回れる。
しかし、ワープ可能かつ東京にもそのコースがある、
とか、VR空間での観光が可能になり、
とかを追加してはならないわけ。

その体勢でのセックスはロボットなら可能だが、
手をワープさせる装置が追加された、
と別の嘘を追加してはならない。


つまり、
フィクションとは、
ファンタジーを成立させる、
ひとつの嘘から導かれた、
演繹法の世界である、
ともいえるかもしれない。

それがそうだとしたら、あれはこうなっているはず、
というのが、
すべて整っていない限り、
それは嘘だとなり、関係性が破綻する。

だから、設定の破綻や、不自然や、矛盾や、
ご都合に、
みんな敏感なんだよ。

これはひとつの嘘から演繹される世界(フィクション)なのか、
多数の嘘を認めるだめファンタジーなのか、
を見極めたいんだよ。


「ひとつの物語」には、
「ひとつの嘘」が対応するべきだ、
ということだ。

もちろん、すべての作品が出来ているという保証はない。
「出来ていないが名作」もあるかもしれない。
「出来ているが、駄作」はもっとある。
必要条件でも十分条件でもないが、
「そうだとすると気持ち良い」ということだ。

それがそうだとすると、あれがこうだと予測できる世界観。
それこそが、「ひとつの物語」として、
完璧をつくれるぞ、
ということだ。

バーチャル京都旅行なら、
なんでもできてしまう。
バーチャルなエアセックスなら、
なんでもできてしまう。
それはだめファンタジーで、
あんまりおもしろくない。
(エアセックス大会では、そのずれを笑うという高度なものであったが)


要素の関係性はあるだろうか?
金閣寺と清水寺の間にあった、
丸太町通りや四条や八坂神社はちゃんとあるか?
あるいは緩やかな下りになっているだろうか?
ただそれがそこにあるだけならば、
それは嘘っぽい。

もっといろんな関係をつくろう。
そしてそれが本物っぽくなるようにしよう。
それがそこにあるなら、あれはあそこにあるはずで、
その通りになっていることを描こう。

そうして信用されれば、
観客は身を乗り出す。
「この作者は分っている人だ」とね。

世界の関係性をつくることは、
たいへん面倒で複雑なことである。
だけど、
それが世界をつくるということだ。

点をたくさんつくるだけでは、
世界構築ではないのだよ。
posted by おおおかとしひこ at 04:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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