という感覚の話。
言語化がなかなか出来ないんだけど、
「頭の中で妄想したもの」と、
「現実にそれがあるもの」はかなり異なることが多い。
妄想と現実は違う、
と簡単に行ってしまうことはすぐできるが、
だとしたら我々フィクションの作り手は、
現実だけ見てろよ、となってしまう。
リアルとファンタジーの間、
フィクションはどこにあるのか、
どうやったら出来るか、ということに我々は興味があるわけで、
現実をみろ、ファンタジーは捨てるのだ、
ということなら存在意義がないし、
フィクションの面白みを伝えることができなくなってしまう。
その思考停止を抜け出るために、
考えるわけだ。
ファンタジーとフィクションの差はなんだろう?と。
毎度出す例があって、
「第一回エアセックス世界大会童貞部門」の話だ。
エアギターがブームの頃、
みうらじゅんがエアセックスを芸にしたら面白いのではないか、
となって、
経験者部門と童貞部門に分けたところが面白かった。
経験者部門はAV男優から街の巧者まで揃ったらしいが、
まあそれはおいといて、
興味深いのは童貞部門なんだよね。
「ありえない位置におっぱいがある」とか、
「それはできない体位である」みたいなことが連発したらしい。
つまり、女体を見たことがないし、
触ったこともないから、
女体の現実味がなく、
「想像上のファンタジー」としてしか、
女体をとらえていない、というのが面白かったわけ。
これが童貞だと笑うのは簡単だが、
我々の想像する物語が、
こうではないという保証はない。
自分の頭の中にだけしか存在しないものが、
童貞の想像上の間違ったおっぱいと、
どう違うのか、どうやって証明できるのか?
という話だ。
知らない土地へ旅行することを考えよう。
京都を例にとるか。
京都観光したい人は、
清水寺へ行きたい、金閣寺へ行きたい、渡月橋と伏見神社へ行きたい、
なんて、ガイドブックを見ながら妄想する。
それはファンタジーの京都旅行である。
頭の中にしか存在しないわけ。
で、「これを一日で回る」イメージをするんだね。
京都人ならば、
この計画にどれだけ無理があるか、
すぐに想像できる。
それは無理やと。
三か所回れるかな。それも保証できないね。
何が違うのか?ということだ。
現実を知っている人は、
点と点の距離感を知っている。
つまり、要素間の関係性を分かっているわけだ。
清水寺から金閣寺へ行くには、バスだと30分はかかるかなあ、
一発で行けないから乗り換えがいるかも、
なんて考えるし、そこから嵐山の渡月橋まで直通なんてないから、
1時間はかけないと無理かな、とか考える。
無理やり詰め込むことは可能だけど、
そこでじっくり見ている余裕なんてまるでなくて、
伏見に行こうと思ったらそこから1時間で行けないだろうなあ、
しかもそのあと軽い山登りみたいなものだから、
体力が持たないだろうなあとか。
ものごとは点だけでは存在しない。
金閣寺から清水寺に行くには、
京大の近くを通りながら東大路を南下し、
丸太町、四条を過ぎて八坂神社に至り、
五条あたりの清水口から東山の中に入りようやくだ。
そういう他の要素との関係性(この場合は位置関係だが)があるわけ。
点と点の関係ではない。
自転車で下れば北から南は下り坂(鴨川の流れる方向)だから簡単だが、
逆に北上は緩やかな上り坂だから、
自転車だと無理筋だな、
とか、京都で暮らした人ならば予測できる。
そういう関係性もある。
そうしたことが、
点と点だけになってしまうことが、ファンタジーだ。
つまり、
おっぱいをなめながら、あり得ない位置の下をさわる、
という童貞のようになっているわけだ。
フィクションとは、
これらを分っていた上で、
嘘をつく行為をいう。
清水寺から金閣寺を、たとえばワープするのだ。
リアルだと30分かなあ、というところに、
全然違う原理を入れること、
関係性を頭の中で(嘘を使って)再構築することが、
フィクションだと定義してもいいかもしれない。
それがそこにあるなら、
あれはここにあるはず。
そういう関係性の感覚というのが、
現実にはある。
だからできない、と現実では考えるが、
こういう嘘を一つだけ認めるならば、
可能になるね、
というのがフィクションだ。
だめなファンタジーはその嘘という道具を使わずに、
ただ点と点で間違ったことをやり続けることだと、
この文脈では定義できる。
おっぱいを舐めながらあり得ない位置の下をさわることは、
リアルな女体では不可能だが、
VRという嘘なら可能かもしれないし、
3Pで違う人のそれなら可能かもしれないし、
ロボットや宇宙人ならそれが可能かもしれないわけ。
じゃあ、
どういう嘘で点と点の関係性を成立させていますか、
ということが、
フィクションなんだよな。
で、フィクションには基本ルールがあって、
二つ以上の嘘を使わないこと、
というやつさ。
ひとつ大きな嘘をつくならば、
あとはリアルの関係性を使おうぜ、
ということだ。
ワープ可能である、という大きな嘘をつくことができたら、
京都のそのコースは回れる。
しかし、ワープ可能かつ東京にもそのコースがある、
とか、VR空間での観光が可能になり、
とかを追加してはならないわけ。
その体勢でのセックスはロボットなら可能だが、
手をワープさせる装置が追加された、
と別の嘘を追加してはならない。
つまり、
フィクションとは、
ファンタジーを成立させる、
ひとつの嘘から導かれた、
演繹法の世界である、
ともいえるかもしれない。
それがそうだとしたら、あれはこうなっているはず、
というのが、
すべて整っていない限り、
それは嘘だとなり、関係性が破綻する。
だから、設定の破綻や、不自然や、矛盾や、
ご都合に、
みんな敏感なんだよ。
これはひとつの嘘から演繹される世界(フィクション)なのか、
多数の嘘を認めるだめファンタジーなのか、
を見極めたいんだよ。
「ひとつの物語」には、
「ひとつの嘘」が対応するべきだ、
ということだ。
もちろん、すべての作品が出来ているという保証はない。
「出来ていないが名作」もあるかもしれない。
「出来ているが、駄作」はもっとある。
必要条件でも十分条件でもないが、
「そうだとすると気持ち良い」ということだ。
それがそうだとすると、あれがこうだと予測できる世界観。
それこそが、「ひとつの物語」として、
完璧をつくれるぞ、
ということだ。
バーチャル京都旅行なら、
なんでもできてしまう。
バーチャルなエアセックスなら、
なんでもできてしまう。
それはだめファンタジーで、
あんまりおもしろくない。
(エアセックス大会では、そのずれを笑うという高度なものであったが)
要素の関係性はあるだろうか?
金閣寺と清水寺の間にあった、
丸太町通りや四条や八坂神社はちゃんとあるか?
あるいは緩やかな下りになっているだろうか?
ただそれがそこにあるだけならば、
それは嘘っぽい。
もっといろんな関係をつくろう。
そしてそれが本物っぽくなるようにしよう。
それがそこにあるなら、あれはあそこにあるはずで、
その通りになっていることを描こう。
そうして信用されれば、
観客は身を乗り出す。
「この作者は分っている人だ」とね。
世界の関係性をつくることは、
たいへん面倒で複雑なことである。
だけど、
それが世界をつくるということだ。
点をたくさんつくるだけでは、
世界構築ではないのだよ。
2024年02月16日
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