常識人を出すことだ。
ぶっ飛んだ、尖った、圧倒的なものをつくりたい。
創作を目指す人間ならば、誰もがそう思うことだろう。
若者はとくにそうだし、年をとってもその欲望はどんどんと増していくものだ。
で、短いやつならば、
その圧倒的なぶっ飛びさをぶつけるだけでよい。
それそのものの質量で殴れるだろう。
だけど、映画のような長丁場では、
それではもたないことがある。
なので、
常識的な人と、ぶっ飛びを対比させるといいよ、
という話をする。
なぜ長丁場では、
ぶっ飛んだものオンリーで勝負できないのか、
というと、人は慣れてしまう生き物だからだ。
たしかにファーストシーン、セカンドシーンくらいで、
ぶっとんだものがあり、
すげえなあ、圧倒的だぜ、
ってなったとしても、人間慣れてしまう。
サードシーンくらいでそれをやっても、
「それはそういうもの」として慣れてしまうため、
そんなにぶっ飛んだ感じがなくなるんだよね。
単独ではぶっ飛んでいても、
ぶっ飛び、ぶっ飛び、ぶっ飛びとなると、
それが普通になってしまう。
音量がデカいものがあっても、
それが繰り返していたら、
デカいのが普通になってしまう感じ。
とくにそれだけでは驚かなくなるんだね。
そういう時は、音の小さいものを挟むとよい。
つまり感覚をリセットするといいわけだ。
一回音の小さいものに慣れさせて、感覚を戻したときに、
改めて大音量のものを鳴らしたら、
デカいなあ、って思うのさ。
巨乳もそういうことかな。
巨乳をドーンといきなり出したら、
デカいなあと思うかもしれないが、
そればかり見ていたら、
巨乳慣れをしてしまい、
その刺激じゃ満足できなくなる。
それでエロゲーみたいな、
奇形の巨乳じゃないと刺激が足りなくなってしまうんだろうね。
一回Aカップを挟めば、Dでも巨乳に見えるのにね。
で、
もっと一般化するとしたら、
常識的な人を挟むといいよ、
というのがこの記事の趣旨だ。
ひらたく言うとツッコミ役をつくれ、
ということだ。
それがどれくらいレアなものか、
それがどれくらいヘンテコなのか、
それがどれくらいぶっちぎっているか、
常識から見たらこれくらいだ、
という測定する感覚がないと、
それがどれくらい突出しているか、
分らなくなるわけだ。
「なんでやねん、そんなアホな」
というのは、平常の感覚から見て、
はずれている、ということのリアクションである。
文字通りのツッコミを入れる必要はないが、
それと同じ役割をする人が必要だということだ。
これは一人でもいいし、複数いてもいいし、
モブであってもいいよ。
とにかく、
「それが普通から見たらぶっ飛んでいるぞ」
ということを常に確認する役がいれば、
ぶっ飛びは認識され続けるということだ。
まあその人もある種慣れてしまうかもしれない。
たとえば、
「怪獣が出現する」という異常は、
映画の中ではよく起こる。
最初は異常事態発生であったものが、
三日連続したら、
「もう怪獣にも慣れてきましたよ」ってその人は言うかもしれない。
「異常事態に慣れ過ぎて、こっちが日常になってきました」
なんてセリフすらいうかもね。
そんな風にして、異常世界と観客の気持ちがシンクロしていくわけだね。
でも、そうなったら、もはやそれはぶっ飛んだ、
尖ったものではなくて、
ただの平坦な平凡なものになる。
それを超えるぶっ飛びを用意しないと、
さらには飛べないだろう。
短編ならば、
ひとつのぶっ飛びをつくるだけで、
ぶっ飛んだものをつくったなあ、
なんてなるんだけど、
長編はそうはいかない。
一個ぶっ飛んでもな、という感じになるわけだ。
今どこで見れるかはわからないが、
「survive style 5 +」
という浅野忠信主演の映画を見る機会があれば、
観察するとよい。
当時CMでぶっ飛んでいたトップクリエイター、
多田拓と関口現のコンビがつくったものだけど、
最初はぶっ飛んですごいなー、
なんて思っていても、
同じ味の金太郎飴に慣れてしまい、
全然ぶっ飛んでいる感覚じゃなくなるんだよね。
そのことに彼らが気づいていたとは思えない。
単に「ぶっ飛んでいるおれたちすげえ」ってなっていただけだと思う。
逆にいうと、
最初一発ぶっ飛んだはいいが、
その後鳴かず飛ばずに、最終的になっている、
とても不幸な映画だ。
ぶっ飛び方を、知らなかったんだね。
ということで、
ぶっ飛んだ映画をつくりたければ、
アイスクリームの中のウエハースのような、
常識人とペアにすることだ。
その人がつねに平準位置を示すことで、
ぶっ飛びが相対化されるだろう。
ぶっ飛びは、今立っている位置からの相対位置で決まる。
慣れさせてはならない、ということさ。
2024年02月20日
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