2024年02月26日

人は自分のやることを愛している

趣味でも仕事でもなんでもいい。
長期的に携わっているものを、人は愛している。
その愛し方を想像しよう。


まず、自分の趣味や仕事を語ろう。
どういう愛し方をしているか。
なんだかんだ言って、好きだから続けているわけだ。
そして、それを愛している部分があるだろう。
そのことについて、まず語ってみよう。

次。
それを他人の趣味や仕事について、想像するのだ。
たとえば、
電車の運転手は、なぜその仕事を愛しているのか。
プラモデルが趣味の人は、なぜその趣味を愛しているのか。
キャバクラ嬢はなんだかんだいってこの仕事が好きだとして、どのへんが?
バイクに乗るのの、何が楽しいんだろう?

その人のつもりになって考えてみる練習をしよう。
それに出会ったとき。
それの神髄を知ったとき。
これはもう一生これと付き合うな、と思ったとき。
なんでもいいから、愛しているポイントを、
嘘でもいいから語らせてみるのだ。
もちろん、実際に取材してもよい。
色んな、考えもしなかったリアリティを知ることができる。
想像していたものと違ったわ、ということを知ることができるし、
あるいは、ここまでは想像できてたなあ、
などと確認することもできる。


さて。
ここからが本題。

「一通り以外の愛し方」について考える。

どういうことかというと、
最初に自分のことについて考えた例でいうと、
「他の人の、別の愛し方」を想像するのだ。
自分なりの愛し方ではなく、
別の人の別の愛し方を考えるわけ。
あなたの好きで、愛しているところを同様に愛しているわけではないだろう。
別のところを愛しているときがあると思う。
同じ女を愛した男でも、
同じ部分を愛しているとは限らない。
別のところを愛している可能性もあるわけ。

映画でたとえるか。
映画鑑賞が僕はすきだ。
まったく別世界に連れてって、
冒険を疑似体験するのがすきだ。
そして、それが終わったとき、
現実世界に帰ってきたとき、
架空の世界の冒険を思い出して、それと現実を重ね合わせて、
何かしらの教訓を重ねるのがすきだな。

それとは、まったく別の映画の愛し方もあるだろう。
推しが出ているから好きだとか、
他の人と被らないから、アート系映画だけが好きだという人もいるし、
ホラーやスプラッタばかりを見る暗い人もいるし、
メイキングを見て業界を志す人もいる。
それぞれの愛し方があるべきだし、
僕と重なり合わない愛し方もあるだろう。
なんなら、
僕の否定するような愛し方をしている人もいると思う。


ようやく本題だ。

主人公の、自分の仕事の愛し方とは、
真逆の愛し方をしている人が、その世界にいるはずだ。
それが敵になる。


敵は悪人ではない。
立場上目的が競合する人だ。
しかし、同じ人格であっては面白くなくて、
自分と異なる他人との相克が物語(コンフリクト)である。
ということは、愛し方すら異なるわけ。

あなたの映画の愛し方とは異なる、
まったく別の映画の愛し方をしている人が、
敵になるんだ。

もちろん、これは映画監督の話でしか通用しないから、
その架空の主人公の仕事で考えるとよいだろう。


電車の運転手ならば、
その主人公は、
「毎日同じ時刻に正確に運転するのが好き」だとしようか。
敵も同じ電車の運転手として、
「ギリギリまでスピードを出して、減速するのが好き」
みたいに、まったく別のところを愛しているとする。
この二人が、
ある場所でレーサーにならなければならない、
というストーリーだとしたら?

同じ時刻を正確に行くことを愛する主人公ではなく、
敵のほうが向いている可能性があるよね。
だから、序盤は敵にやられっぱなしになるだろう。

こんな風に、
愛し方が違うだけで、
状況によっては、適不適があり、
展開がどんどん変わって来る可能性が出てくるわけだ。
あるいは、好きや愛してるとかよりも、
もっと強い、信念や哲学になっている可能性もある。
「それをそんな風に思っている奴は許せない」
という怒りすら湧くかもしれないね。
敵として十分だね。

愛し方は十人十色だ。
だから対立する。

愛し方は生理的なものだと思う。
だから、相いれないときの嫌悪感はすごい。

あるアイドルグループを応援するときに、
アイドルAが好きな人と、Bが好きな人は、
対立するだろう。
愛し方が違うからだ。
それでも同じグループを愛していると言えるのか?
って必ずなるだろう。
それらの主張が強くなってきたときは、
もう解散しかないよね。
つまり、対決するしかないわけ。
それが、物語の原動力、内圧みたいなものになっているわけだね。


人それぞれに愛し方があっていい。
それは現実における多様性だ。
ただし、物語においては、
その差異で、揉めることになる。

まあぶっちゃけ現実でも、それで揉めることになる。
「あんたがそんなことを考えているとは思わなかった」
というのは、決裂のもっとも根源的なことだよね。

目的が相いれないことが、
物語的な対立の原因である。
しかし、思想や哲学や生理的なものが相いれないことのほうが、
嫌悪としては強くなるよね。
それも利用するのだ。

そのために、
「なぜその人は〇〇を愛しているのか?」
を創作して、そして何パターンもつくれるようにしておくべきだ。
それらが対立するものになったら、
しめたものである。
posted by おおおかとしひこ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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