趣味でも仕事でもなんでもいい。
長期的に携わっているものを、人は愛している。
その愛し方を想像しよう。
まず、自分の趣味や仕事を語ろう。
どういう愛し方をしているか。
なんだかんだ言って、好きだから続けているわけだ。
そして、それを愛している部分があるだろう。
そのことについて、まず語ってみよう。
次。
それを他人の趣味や仕事について、想像するのだ。
たとえば、
電車の運転手は、なぜその仕事を愛しているのか。
プラモデルが趣味の人は、なぜその趣味を愛しているのか。
キャバクラ嬢はなんだかんだいってこの仕事が好きだとして、どのへんが?
バイクに乗るのの、何が楽しいんだろう?
その人のつもりになって考えてみる練習をしよう。
それに出会ったとき。
それの神髄を知ったとき。
これはもう一生これと付き合うな、と思ったとき。
なんでもいいから、愛しているポイントを、
嘘でもいいから語らせてみるのだ。
もちろん、実際に取材してもよい。
色んな、考えもしなかったリアリティを知ることができる。
想像していたものと違ったわ、ということを知ることができるし、
あるいは、ここまでは想像できてたなあ、
などと確認することもできる。
さて。
ここからが本題。
「一通り以外の愛し方」について考える。
どういうことかというと、
最初に自分のことについて考えた例でいうと、
「他の人の、別の愛し方」を想像するのだ。
自分なりの愛し方ではなく、
別の人の別の愛し方を考えるわけ。
あなたの好きで、愛しているところを同様に愛しているわけではないだろう。
別のところを愛しているときがあると思う。
同じ女を愛した男でも、
同じ部分を愛しているとは限らない。
別のところを愛している可能性もあるわけ。
映画でたとえるか。
映画鑑賞が僕はすきだ。
まったく別世界に連れてって、
冒険を疑似体験するのがすきだ。
そして、それが終わったとき、
現実世界に帰ってきたとき、
架空の世界の冒険を思い出して、それと現実を重ね合わせて、
何かしらの教訓を重ねるのがすきだな。
それとは、まったく別の映画の愛し方もあるだろう。
推しが出ているから好きだとか、
他の人と被らないから、アート系映画だけが好きだという人もいるし、
ホラーやスプラッタばかりを見る暗い人もいるし、
メイキングを見て業界を志す人もいる。
それぞれの愛し方があるべきだし、
僕と重なり合わない愛し方もあるだろう。
なんなら、
僕の否定するような愛し方をしている人もいると思う。
ようやく本題だ。
主人公の、自分の仕事の愛し方とは、
真逆の愛し方をしている人が、その世界にいるはずだ。
それが敵になる。
敵は悪人ではない。
立場上目的が競合する人だ。
しかし、同じ人格であっては面白くなくて、
自分と異なる他人との相克が物語(コンフリクト)である。
ということは、愛し方すら異なるわけ。
あなたの映画の愛し方とは異なる、
まったく別の映画の愛し方をしている人が、
敵になるんだ。
もちろん、これは映画監督の話でしか通用しないから、
その架空の主人公の仕事で考えるとよいだろう。
電車の運転手ならば、
その主人公は、
「毎日同じ時刻に正確に運転するのが好き」だとしようか。
敵も同じ電車の運転手として、
「ギリギリまでスピードを出して、減速するのが好き」
みたいに、まったく別のところを愛しているとする。
この二人が、
ある場所でレーサーにならなければならない、
というストーリーだとしたら?
同じ時刻を正確に行くことを愛する主人公ではなく、
敵のほうが向いている可能性があるよね。
だから、序盤は敵にやられっぱなしになるだろう。
こんな風に、
愛し方が違うだけで、
状況によっては、適不適があり、
展開がどんどん変わって来る可能性が出てくるわけだ。
あるいは、好きや愛してるとかよりも、
もっと強い、信念や哲学になっている可能性もある。
「それをそんな風に思っている奴は許せない」
という怒りすら湧くかもしれないね。
敵として十分だね。
愛し方は十人十色だ。
だから対立する。
愛し方は生理的なものだと思う。
だから、相いれないときの嫌悪感はすごい。
あるアイドルグループを応援するときに、
アイドルAが好きな人と、Bが好きな人は、
対立するだろう。
愛し方が違うからだ。
それでも同じグループを愛していると言えるのか?
って必ずなるだろう。
それらの主張が強くなってきたときは、
もう解散しかないよね。
つまり、対決するしかないわけ。
それが、物語の原動力、内圧みたいなものになっているわけだね。
人それぞれに愛し方があっていい。
それは現実における多様性だ。
ただし、物語においては、
その差異で、揉めることになる。
まあぶっちゃけ現実でも、それで揉めることになる。
「あんたがそんなことを考えているとは思わなかった」
というのは、決裂のもっとも根源的なことだよね。
目的が相いれないことが、
物語的な対立の原因である。
しかし、思想や哲学や生理的なものが相いれないことのほうが、
嫌悪としては強くなるよね。
それも利用するのだ。
そのために、
「なぜその人は〇〇を愛しているのか?」
を創作して、そして何パターンもつくれるようにしておくべきだ。
それらが対立するものになったら、
しめたものである。
2024年02月26日
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