2024年02月27日

終わらせることは、始めるより難しい

始めるだけなら誰でもできる。
オープニングシーンなんて、
ちょっと文章が書けたら、誰にでも書けるといってよい。
問題は終わらせることだ。


なぜ終わらせることが始めるよりも難しいのか。
それは、ケツを持つからである。

始めたことはなんとでもなる。
好きなように展開すればいいよ。
だから、好きなようにできる、
という意味で、始めるのは簡単だ。
でも終わらせることは、好きなようにはできない。
ケツを持つ必要があるからだ。

つまり、
始めたことにたいして、責任ある態度で、
終結させる意味をつくらないといけないわけだ。

いや、適当に終わります、始めたのも適当なので、
だと面白くない。
現実にはよくあることかもしれないが、
これは娯楽である。
適当に終わってんじゃねえよ、ってなる。
逆にいえば、
客は、現実では適当に終わってしまうものに対して、
意味のあるケツの持ち方を要求している。


それは、現実が、いかに適当にしか終わらないかの、
逆の証明でもある。

現実が適当だからこそ、
創作や娯楽は、きっちり終わりたいのだ。

ちゃんとクライマックスがあり、
フィナーレがあり、
ああ、始めたことがちゃんと終わったなあ、
というものが欲しいわけ。


東京五輪みたいに、
羊頭狗肉で、看板倒れで、
蓋を開けたらひどいことになっているものは、
創作や娯楽ではないのである。
現実が東京五輪みたいだからこそ、
人はもっと整理された、
オチのあるものを求めるのだ。

これがもし現実が、
整理されて、意味のあるものだらけになっていたとしたら、
ナンセンスやオチのないものが流行ると思う。
たとえば80年代はそういうものも流行った。
それは、
世界が冷戦構造で停止して、
(よく考えれば誰かの天下三分の計だったのかもね)
意味が確定してしまったような雰囲気だったからこそ、
枠を飛び越えるような不条理や、
ナンセンスが流行ったような気がする。

今はその時代の逆だね。
現実であまりにも不条理で意味がないものが多いからこそ、
模範となるモデルが失われているからこそ、
人は、
せめてフィクションに、
ちゃんとした結末を求めている気がする。

求めている、というのはまだ数字にも出てないし、
アンケートにも浮き上がってきていない。
それは、言われて初めて「そうだったのか」と知ることの出来るものだ。

そういうものを書ける人が、
今次の時代をつくりに行けると思う。
もちろんこれは僕の分析に過ぎない。
もっと違う時代の作り方があるかもしれない。



終ることの難しさは、
そう終わって、納得するかどうかにつきる。

納得するとはどういうことだろう。
最初からそれをやって来た意味があったとか、
なんのためにそれがあるのか分ったとか、
そういうことだと思う。
それって、
人生に意味があったとか、
その何年間かに意味があったとか、
そういう納得の仕方に似ていると思う。

つまり、時代の逆理論でいけば、
今人々は、人生や会社や仕事や恋愛に、
あまり意味を見いだせていないんじゃないかな。

色々な情報は乱立しているが、
どれが正しいか分からないんじゃないかな。

だとしたら、
疑似体験したものに意味があるということを、
筋を通していってほしいのではないか、
などと僕は考えている。



無責任に終わるのは誰でもできる。
だが、そういう責任あるおしまいを考えるのは、
大変難しい。
しかも断言調であればあるほど、
生意気であるとか、そうとも限らないとかの、
抵抗が必ずある。
それで潰される表現者が多々いる。
ややこしい時代になったものだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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