始めるだけなら誰でもできる。
オープニングシーンなんて、
ちょっと文章が書けたら、誰にでも書けるといってよい。
問題は終わらせることだ。
なぜ終わらせることが始めるよりも難しいのか。
それは、ケツを持つからである。
始めたことはなんとでもなる。
好きなように展開すればいいよ。
だから、好きなようにできる、
という意味で、始めるのは簡単だ。
でも終わらせることは、好きなようにはできない。
ケツを持つ必要があるからだ。
つまり、
始めたことにたいして、責任ある態度で、
終結させる意味をつくらないといけないわけだ。
いや、適当に終わります、始めたのも適当なので、
だと面白くない。
現実にはよくあることかもしれないが、
これは娯楽である。
適当に終わってんじゃねえよ、ってなる。
逆にいえば、
客は、現実では適当に終わってしまうものに対して、
意味のあるケツの持ち方を要求している。
それは、現実が、いかに適当にしか終わらないかの、
逆の証明でもある。
現実が適当だからこそ、
創作や娯楽は、きっちり終わりたいのだ。
ちゃんとクライマックスがあり、
フィナーレがあり、
ああ、始めたことがちゃんと終わったなあ、
というものが欲しいわけ。
東京五輪みたいに、
羊頭狗肉で、看板倒れで、
蓋を開けたらひどいことになっているものは、
創作や娯楽ではないのである。
現実が東京五輪みたいだからこそ、
人はもっと整理された、
オチのあるものを求めるのだ。
これがもし現実が、
整理されて、意味のあるものだらけになっていたとしたら、
ナンセンスやオチのないものが流行ると思う。
たとえば80年代はそういうものも流行った。
それは、
世界が冷戦構造で停止して、
(よく考えれば誰かの天下三分の計だったのかもね)
意味が確定してしまったような雰囲気だったからこそ、
枠を飛び越えるような不条理や、
ナンセンスが流行ったような気がする。
今はその時代の逆だね。
現実であまりにも不条理で意味がないものが多いからこそ、
模範となるモデルが失われているからこそ、
人は、
せめてフィクションに、
ちゃんとした結末を求めている気がする。
求めている、というのはまだ数字にも出てないし、
アンケートにも浮き上がってきていない。
それは、言われて初めて「そうだったのか」と知ることの出来るものだ。
そういうものを書ける人が、
今次の時代をつくりに行けると思う。
もちろんこれは僕の分析に過ぎない。
もっと違う時代の作り方があるかもしれない。
終ることの難しさは、
そう終わって、納得するかどうかにつきる。
納得するとはどういうことだろう。
最初からそれをやって来た意味があったとか、
なんのためにそれがあるのか分ったとか、
そういうことだと思う。
それって、
人生に意味があったとか、
その何年間かに意味があったとか、
そういう納得の仕方に似ていると思う。
つまり、時代の逆理論でいけば、
今人々は、人生や会社や仕事や恋愛に、
あまり意味を見いだせていないんじゃないかな。
色々な情報は乱立しているが、
どれが正しいか分からないんじゃないかな。
だとしたら、
疑似体験したものに意味があるということを、
筋を通していってほしいのではないか、
などと僕は考えている。
無責任に終わるのは誰でもできる。
だが、そういう責任あるおしまいを考えるのは、
大変難しい。
しかも断言調であればあるほど、
生意気であるとか、そうとも限らないとかの、
抵抗が必ずある。
それで潰される表現者が多々いる。
ややこしい時代になったものだ。
2024年02月27日
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