2024年02月28日

ドラマティックは、現実にはない

だからドラマティックを求めるか、
いや、そんな嘘くさいものはいらないとするか。


フィクションは、
かつてより苦境に立たされていると思う。
情報が行き渡っていて、
嘘かリアルかばかりが重要になってしまったからだ。
リアルの情報確認でせいいっぱいで、
嘘を排除するような感覚になってしまっている。

だけど、
せっかくフィクションを楽しみに来たのに、
現実と似たようなものを見させられることが、
果たして楽しいのか?という問いがある。

僕はつまらないと思う。
今、この世界のリアリティレベルで、
しかもフィクションになりえるものを見せて欲しいと思っている。

もちろん、リアリティのレベルはいくつもあってよい。
現実そのものである必要はない。
だから、
フィクションをやるだけのリアリティレベルを設定したうえで、
そのうえで嘘をついて欲しいなと思っている。


リアルが欲しいんじゃないよね。
芸能人がいくらもらってるとか、
どこに住んでるとか、
キラキラした生活をしているとかは、
どうでもいいはずだ。
目の前のその役が、これからどうなるかが、
面白さになるわけだ。

いっとき、それらをごちゃまぜにするような、
つくられた芝居じゃなくて、リアルなリアクションが求められた時期があったけど、
それもみんな飽きてきて、
次のフィクションを求めている気がする。
それは、たとえ芝居がかっていたとしても、
思い切り飛べるものだろう。

たとえばどんなに大げさな芝居だとしても、
フィクションでの面白さは、
半沢直樹は面白かったわけだ。
あれをリアリティがないと批判する人はいない。
お芝居で、フィクションであることが分っているからだ。
つまり、フィクション上面白ければ、
リアリティは引っ込むんだね。
リアリティがあるから面白いんじゃない。
フィクションとして面白いから面白いんだ。

そういう風にリアルとフィクションの関係を考えないと、
リアリティショーしか答えがなくなってしまう。


信じるに足る世界をつくるのが理想だ。
でもストーリーありきで考えてよい。
そのストーリーをフィクションとして成立させるだけの、
最低限必要な世界だけ考えればよい。

それがリアルと遠く離れていても、
フィクションならではの面白さがそこにあるなら、
リアリティは引っ込むだろう。

つまり宝塚が一番強いということさ。
それに負けないくらいの、
フィクションレベルを上げていこう。
そういう「夢中」を、みんな求めていると思うよ。


結局、ドラマティックなことなんて、
全然現実にはないんだよ。
思い切りドラマティックなことは、
フィクションにしかないよ。
posted by おおおかとしひこ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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