だからドラマティックを求めるか、
いや、そんな嘘くさいものはいらないとするか。
フィクションは、
かつてより苦境に立たされていると思う。
情報が行き渡っていて、
嘘かリアルかばかりが重要になってしまったからだ。
リアルの情報確認でせいいっぱいで、
嘘を排除するような感覚になってしまっている。
だけど、
せっかくフィクションを楽しみに来たのに、
現実と似たようなものを見させられることが、
果たして楽しいのか?という問いがある。
僕はつまらないと思う。
今、この世界のリアリティレベルで、
しかもフィクションになりえるものを見せて欲しいと思っている。
もちろん、リアリティのレベルはいくつもあってよい。
現実そのものである必要はない。
だから、
フィクションをやるだけのリアリティレベルを設定したうえで、
そのうえで嘘をついて欲しいなと思っている。
リアルが欲しいんじゃないよね。
芸能人がいくらもらってるとか、
どこに住んでるとか、
キラキラした生活をしているとかは、
どうでもいいはずだ。
目の前のその役が、これからどうなるかが、
面白さになるわけだ。
いっとき、それらをごちゃまぜにするような、
つくられた芝居じゃなくて、リアルなリアクションが求められた時期があったけど、
それもみんな飽きてきて、
次のフィクションを求めている気がする。
それは、たとえ芝居がかっていたとしても、
思い切り飛べるものだろう。
たとえばどんなに大げさな芝居だとしても、
フィクションでの面白さは、
半沢直樹は面白かったわけだ。
あれをリアリティがないと批判する人はいない。
お芝居で、フィクションであることが分っているからだ。
つまり、フィクション上面白ければ、
リアリティは引っ込むんだね。
リアリティがあるから面白いんじゃない。
フィクションとして面白いから面白いんだ。
そういう風にリアルとフィクションの関係を考えないと、
リアリティショーしか答えがなくなってしまう。
信じるに足る世界をつくるのが理想だ。
でもストーリーありきで考えてよい。
そのストーリーをフィクションとして成立させるだけの、
最低限必要な世界だけ考えればよい。
それがリアルと遠く離れていても、
フィクションならではの面白さがそこにあるなら、
リアリティは引っ込むだろう。
つまり宝塚が一番強いということさ。
それに負けないくらいの、
フィクションレベルを上げていこう。
そういう「夢中」を、みんな求めていると思うよ。
結局、ドラマティックなことなんて、
全然現実にはないんだよ。
思い切りドラマティックなことは、
フィクションにしかないよ。
2024年02月28日
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