2024年03月10日

生の会話と整えた会話

我々の書くものは創作された会話であり、
ほんとうに交わされた会話ではない。
だけど、まるでほんとうに交わされた会話のように書くものである。
どう違うのか?
隙間の多さだと思っている。


生の会話は隙間が多い。
隙間というのはこの場合、
「ちゃんと言えていない所」としようか。
発音や語彙だけでなくて、
そもそもうまく言えていない所がある、
と定義しよう。

そもそも生の会話を録音してみるとよい。
親しい人同士がよい。
そういうときほど、
あんまりちゃんと言えていないところがたくさんある。
だけど、会話は続くし、互いに齟齬を生じない。
なぜかというと、
相手は親しいほど、
「ちゃんと言えてなくても、相手の言わんとしているところを汲み取る」からだ。

ABCDEFGと伝えたいときに、
A...CD....G
と穴あきでしか話さなかったとしても、
相手は長年の付き合いであればあるほど、
ABCDEFGに頭の中で補完して復元できる、
ということである。
だから、
ABCDEFGに対して、
PQRXYZと答えなければ意味の通じない会話だとしても、
A...CD...G
PQR...Y...
なんて歯抜けの会話になるのがリアルというものだ。
お互いにちゃんと言えない部分があり、
しかしそれはこういうことだろうと補完しながら、
会話は続いていくのだ。

それを知りたければ、
自分と親しい人の会話を10分くらい録音して聞いてみよう。
自分がいかにちゃんと言えていないか、
相手がそこをどれだけちゃんと汲み取って理解しているか、
逆はどうか、
などについて観察することができるはずだ。

このリアルに対して、
文語、つまり紙に書かれるべき会話は、
穴あけ、歯抜けがあってはならない。
ABCDEF
PQRXYZ
と、全部ちゃんと言えないといけないわけ。

なぜなら、勝手知ったる二人の会話ではなくて、
その会話の意図が誤解なく、きちんと伝わらないといけないからだ。
伝えなければならないのは、
二人の当人ではなく、
観客に、である。

教科書は一字一句間違ってはいけないし、
書かれていない文脈があってもならない。
穴あきがあったり歯抜けはだめな教科書だ。
だけど、
リアルな会話とは教科書のような会話はしないわけだ。


さて。
ここに、
話される言葉と、書かれる言葉の差異がある。
話す言葉とは、穴があり、相手の補完前提だ。
書かれる言葉は、きちんとしていて、
全部が完全でなければならない。

で、セリフだ。
セリフは話し言葉であるべきだが、
書かれた言葉の機能も果たさなければならない。
だけど、教科書的な完璧な会話は息苦しい。
しかし、省略や歯抜け会話だと、
観客が理解できなかったり、あまつさえ誤解するかもしれない。

そのいい塩梅を見極められる人が、
セリフがうまい人である。

話し言葉に偏ると、
聞いたときに意味が取れないものになっている可能性が高く、
書き言葉に偏ると、
教科書的で意味はわかるが、堅苦しい表現になるわけだ。

誤解をされては困る、とか、
間違ったらどうしよう、と恐怖すると、
教科書的な網羅文章になりがちだ。
省略するのが怖くなったりする。
そういうときは、
リアルな会話を思い出すとよい。
ちゃんと話せていないところがたくさんあっても、
大体わかるときがある、ということを。
それを恐れて、穴をぜんぶ完璧に埋めるようなセリフは、
翻訳調というか、段取り調になっていくわけだね。

一方、リアルそのものだと、
意味が取れない観客はおいてけぼりになるに違いない。
よほど慣れていないと、
符牒や省略が分らないだろうし、穴や抜けた歯を、補完しきれない時があり得る。

表現は、わかりやすく(書き言葉のように完璧で)、
かつリアルでなければならない。


どちらかしかできていないのは、
下手なセリフである。
そして両方を満たしたり、
間のようなものが、いいセリフだ。

リアルでは、ちゃんと言えていない。
ちゃんと言えてないとわからない。
だけど、人には補完能力がある。
どの程度穴をあけて、どの程度埋めるのがよいかは、
色々実験する以外ない。
それで勘所が分ってきたら、
いいセリフが書けるようになってくる。
posted by おおおかとしひこ at 06:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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