八代亜紀が死んで、追悼記事でも書こうかと思ったんだけど、
Twitterで見たこの話の方が役に立つと思うので、
紹介したい。
> 八代亜紀が歌唱について「歌に自分の感情を乗せすぎては駄目。プロの歌は聞く人のものなので、聞いた人が自分の感情乗せられるスペースを空けておかないと」って言ってて、実際に感情をすごい乗せた歌と普段の歌を歌い分ける、ってのをテレビでやってて、本当に普段の歌の方が感動的だった。
油絵は、すべてを塗り潰して表現する。
水彩画や蒔絵や水墨画は、余白を残す。
デジタル絵は油絵ばかりになって、
水彩画のような余白のある絵がほとんどない。
精細な細かい絵ばかりで、
大掴みで、隙間のあるものが減った。
音楽もDTMみたいなトラックばかりを重ねるようなもので、
素朴な演奏や歌唱がなくなっているような。
デジタルは劣化しないから、
無限に重ねられる。
それが、「無限に重ねないと表現にならない」
ジレンマを引き起こしているように思える。
劣化する何かを表現に使うのがアナログで、
トラックやレイヤーは重ねられないし、
減衰していく。
だから、盛るよりも引くことが大事だ。
八代亜紀の、感情もりもりの歌唱、
どこかに残ってないのかなー。見てみたいな。
「雨の慕情」をYouTubeで見たんだけど、
なんでこんなに軽く歌ってんだろ、
と思ったけど、
その不思議な間が、「もう一回聞きたい」と、
思わせるものになることに気づく。
歌は繰り返し歌うもの。
歌は繰り返し聞くもの。
だとすると、隙間が空いてる方がいいんだよな。
ストーリーはどうか。
ギチギチに詰まった脚本は、
技巧的に素晴らしいのかも知れないが、
余白がなくて苦しくないだろうか?
「トップガン: マーヴェリック」は、
そうした技巧のギチギチの城だが、
隙間のあるいい余白の脚本もほしいよな。
分刻みのスケジュールで最後までいくか?
たまに何もしない日を過ごすか?
すべて世界は説明できると考えるか?
わからないことが沢山あるが、
人間とはそういうものだと考えるか?
八代亜紀は後者の人だったのか、
と改めて思う。
顔はギチギチなのにねえ。
数年前、自由が丘のマリクレールフェスティバルで生歌を聞いた。
プロの歌手いうても凄みがないなあ、
年取って軽くなったのかしら、などと思ってたのだが、
最初から肩の抜けた、
所ジョージみたいな人だとは知らなかったなあ。
余白の多い糸井重里みたいな人との共作とか見たかったね。
肩の力を抜けといっても、
どれくらい抜けばいいのか分からない。
そういう時は全力に肩の力を入れるんだ。
それで、肩の力を抜いてる人を見ると、
必要なところは抜けると思う。
脚本でそういう力の上手く抜けてるものってなんだろう。
やっぱ初期宮崎駿かな。
カリ城〜トトロくらいまで?
アナログでつくらないと、デジタル油絵になっちゃうのかも知れない。
2024年01月10日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック