演劇をずっとやってて、
今中学生に教えている人とした話。
中学生に演劇の台本を書かせると、
ほぼ同じストーリーになってしまうらしい。
かなりの確率でいじめなり、疎外なりの状況から始まるそうだ。
そして延々それが続き、
ある日主人公が意を決して、
「私はこういう人間なのだ」と演説するらしい。
それで終わりなんですって。
相手がおののいたり、「そうだったのか」と納得したりして、
いじめなり、疎外なりがなくなるんですって。
なんというメアリースー。
本能的なメアリースーともいえる。
自分の言えない願望を外に出した段階がクライマックスで、
かつ結末なんですって。
そこに至るストーリー展開はないに等しいらしい。
そんなものが面白いと思われるか、
という客観性はない。
あったらそんなことは書かないだろうし。
だから、
主観的に、
「こうなったらいいのにな」という願望が、
そのまま出たものがそれだということになるわけ。
「どうしたらこれじゃあだめだと言えばいいのか」
とその演劇人は嘆いていたが、
もうそれははしかみたいなもので、
ストーリーを書くうえで、
最初にかかる病だと思ったほうがいいかもね、
という話をした。
それじゃだめだ、
別の話を書け、
なるべくフィクションでやったほうがいいな、
などと指導して、
二本目が書けるか、ということだね。
自分のことだけを書こうとしてしまうと、
たぶん一本書いて、
二本目は二度と書けないだろう。
そういうものさ。
願望は架空の物語によって昇華、成仏してしまったのだから。
目的が成仏だとしたら、
もうそれ以上書けなくなるよね。
スタートはそこからだ、
と思ったほうがよい。
自分の話を書くな、
とどれだけこのブログで書いていても、
どうせ書いちゃうんだよ。
だから、
最初にはしかにかかるべきだ。
メアリースーの、
願望丸出しの、
なぜか解決してしまうような、
テーマを演説してしまう、
そういうものを書いておきな。
中二のときに、暗黒微笑とか、エクスカリバーとか、
そういうやつをやっておけ。
そのうえで、
その一本目はとても恥ずかしいものだ、
ということを知っておくべきだ。
いわば、
黒歴史はちゃんとやれ、
ということを言おうとしている。
それを経ずに、
いきなり名作が書けるやつは、
そもそも才能があるので指導に値しない。
それを生かしてどんどん書きなさい。
勝手にうまくなると思うよ。
困ったらここに来ればよいだけだ。
それを経た人間こそ、
凡人であり、
それを経てから、ようやく大人だともいえる。
つまり、通過儀礼だとおもえばいい、ということだ。
メアリースーも、
願望丸出しも、
なぜか愛されて願いが他人によりかなってしまうご都合も、
演説だけで解消してしまい、反対が起こらないことも、
一回やっておけばいい。
それで悦に入ることが、
恥ずかしいことだと理解するまで、
それをやるがいい。
で、
「そうじゃないもの」を書くことが、
ほんとうに書くことなんだとわかるといいと思う。
もしいじめられたり、疎外されていたりして、
書くことでそれを昇華したいなら、
やればいいよ。
その荷物をまず下ろしたほうがいい。
それからだ。
次の場所へ行くのは。
逆に、その荷物を持ったままじゃあ、
次の本格的なフィクションを書く場には行けないと思う。
もっと身軽でないと無理だろう。
なので、それをやるには、
一回抱えた荷物を下ろしたまえ。
短編でいいと思うよ。
そんなもので10万字も書けないだろう。
次に、ちゃんとしたフィクションを書こうぜ。
自分が主人公じゃない、
他人が主人公で、
それが事件を華麗に解決する話さ。
見たことのあるような、見たことのないような、
そういう架空の話を書けばいい。
何本も何本も書いて、
やっとモノになってくるものだから、
どんどん習作はしておいてもいいよ。
発表しなければいいだけのことさ。
人に見せるレベルというのはどういうものか、
他人の脚本を見れば、大体わかる。
ここのブログの脚本添削スペシャルなどを見れば、
どういうものがいいか、悪いかが、
分ると思う。
分ると書けるはまた別なのだが、
分かっていないことを書くことは偶然でしかないため、
技術として必然にするには、
分ることが大事だね。
ということで、
中学生たちよ、まずは中二ストーリーを、
存分に書きな。
第二作からが、やっと土俵にあがれる。
2024年03月16日
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