2024年02月04日

「それはひどい」を思いつく力

これも一つの才能。悪役を立たせるためにいる。
悪役がひどければひどいほど、
主役の行動は立つというものだ。


悪役がどれだけひどいことをやるかで、
ストーリーの下が決まる。
下が暗いほうが上が光るというものだ。
どんなに主人公の行動が面白く価値のあるものだからといっても、
それは劇中の相対的な価値しかないので、
劇中での影と光になるようにしておくべきだ。

ということで、ひどい、悪辣な行為を考えられる人は、
それだけで才能があるといってもよい。
僕が生理的にキツイと思ったのは、
「告白」の、
先生がHIVに感染した血液を、牛乳の中に混ぜた、
というやつ。
うっかり飲んじゃうことを想像すると、
生理的な嫌悪感がすごいなあ、と思った。
考えた人は天才である。
それを絵の中で実際にしていないのに、
「した」と言われるだけで、生理的に来るからね。

拷問とかもそうだね。
実際の拷問を受けるよりも、
それを受けると想像したほうが嫌だったりする。
針の上に正座で座らされる拷問は、
想像しただけで痛くなるが、
「ついでに重たい石を抱えさせれる」という追加条件もきつい。
地獄を考えた人は天才である。
三途の川の石を積むやつもひどいよね。
せっかく積んだやつを鬼が蹴飛ばして、
また一からなんだぜ。
病むわ。(地獄だから死ぬことがないのがつらい)

こんな風な、
「現代の地獄」ないし、
そのストーリー内での地獄を考えだして、
悪役がそれをやる、というのを考えると、
それはよい創作になるだろう。

勿論、悪役が必ずしも存在するわけではない。
カッコイイ悪役がいるかもしれない。
しかし、
それは本当にひどいやつなんだぜ、
があるだけで、ストーリーはガラリと変わる。

ある犯罪組織がある。
麻薬を密売している、だと普通だな、となるわけ。
フィクションではよくあるだろ、となって、
あまりこの組織撲滅には身が入らない。
しかし、
風俗嬢に麻薬を売って資金を回収している、
そのために風俗嬢に落とす、みたいな組織だったら、
かなり嫌な気持ちになるだろう。
ついでに主人公の妹とか、親しい人が知らずにそこに落ちていたら気分が悪くなる。
だから、その組織の壊滅に快哉を叫ぶことになるわけ。

闇が深いほうが光はまぶしくなる。
じゃあ、闇をもっと深くしたほうがいいぞ、
という話。
ひどいことをどれだけ考えられるか、
という創作だってあるわけだ。

凄惨な世の中から目を背けている場合ではない。
全てはネタになる。


さて、ようやく本題だ。

そのひどいことは、アンチテーゼになるべきだ。
どういうことかというと、
主人公が証明しようとしている命題の、
逆であるべきだ、ということ。

純愛がテーマなら、悪役はやりちんである。
正義の弁護士がテーマなら、悪役は無法者か、
法律の抜け穴を生きる悪の弁護士だ。
(法律を変えてしまう政治家もそうだな)

その、悪の所業を「ゆるせん」となったときに、
テーマという光が当たるのだ。
それはnot Aである、Aであるべきだ、
となるわけだね。
ここが最もコントラストが強くなるから、
Aはテーマになるわけ。

「人生は何度でもやり直せる」がテーマなら、
悪役は「失敗は一度も許さない」であるべきだ。
「一杯のビールが人生を良くする」なら、
悪役は「禁酒法」または「アルコール依存症」であるべきだ。


そのアンチテーゼとしての、
「ひどいこと」「徹底的なこと」は、
なんだろう?

それを考えれば、
おのずと悪役の立ち位置はきまってくる。
posted by おおおかとしひこ at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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