2024年01月22日

観客はバラバラである

ヤマハのどら焼きがドラになってる、
というツイートに対する、周りの反応が実に興味深い。
https://x.com/Euph_200305/status/1746097312798253181?s=20


「ドとラが書いてるからドラ焼きね!」
という主に対して、
「音楽関係者ですが、
ト音記号が書いてないので、厳密にはドラか不明」
としたり顔をしてるやつがいる。

「洒落てんねえ」でいいものを。
表現には省略が伴うから、
厳密性は第一義のためにはひっこむ、
ということを知らないのか?

僕は音痴なので時々音を外すが、
それでも表現が伝わればいいじゃないかと思っている。
そこに厳密性を持ち込んで表現の速度を落とすのは、
表現を貶めているわるいやつとすら思うね。
線なんて曲がっててもいいんだよ。いい絵なら。
言葉が間違っててもいいんだよ。気持ちが本物なら。
 

で、
それに対して、
「上下ひっくり返してもドラだ!すげえ!」
と、隠された意図を発見してる人がさらにいて、
そこが面白いとおもった。

へえ、それは洒落た表現だなー。
僕音符苦手なので気づけなかったよ。



厳密性からは決して生まれない表現がある。
厳密性重視の音楽関係者は、
この表現のおもしろさに一生たどりつけないのだな。

先入観や常識の鎖を千切るのが表現だ。
そしてただ千切る逆張りだけでなく、
オチがあるのが表現である。

なるほどそのオチのために、常識の鎖を千切ったのね、
という腹落ちが、「天晴」を産む。

その天晴の一瞬の永遠のために、表現はあるのだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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