2024年03月19日

あえて王道を練習する

ざっくりいうと、王道と覇道がある。
王道は誰もが納得するメジャーなやり方、
覇道はマイナーだけど突破するかもしれないやり方。
若いうちは尖って覇道を選びたがる。
まあそれは止めない。存分にとがりなさい。

その上で、王道をあえて練習する時間を設けるとよい、という話。


ある場面がある。
これを尖った、特殊なやり方で描くことをしようとしているとしようか。
それをどう描くかを考えているとき、
あえてやってみるのだ。
「王道だとどうする?」ってね。

それはある意味、
使い古された、誰もが見たことのある、
ベタな、当たり前すぎるものである。

だが逆に、
映像文法としてはしっかりしていて、
誰もが分かりやすく、
誤解を生むこともなく、
最小の労力で伝わるものであるはずだ。

その、よくできた王道を、
使いこなせるならば、
(多少古いとはいえ)すっとそこは流れるということだ。

つまり、
王道をマスターする目的は、
王道そのものを使うことにはない。
労力のいらないところは王道で、
いざ決めるときには、オリジナリティあふれる、
覇道を工夫すればいいぜ、
ということを言おうとしている。

全編を覇道で埋め尽くすと、
わけのわからないとがりすぎたものになることがある。
そういうときは、
決めのシーンはそのようにして、
他にどうしてもわからないといけないところとか、
説明部分とか、前提部分とかは、
王道にしておくほうが伝わりやすいし、
作る労力も少なくて済むぜ、
ということ。

逆に、王道がいかに労力なくして作れるか、
というエネルギー最小状態に来ていることを、
王道を通じて体験するといいよ、
ということ。


王道はつまりは使い古された獣道である。
誰もがそこを通るから、
つまらないし、
そうじゃない荒野に出ようという意思が覇道だ。
だけど覇道はしんどいし、
必ずしも成功するとは限らない。

この際、誰もが通る王道を、
使えるようになっておこうぜ、
そうしたら、
「これからやるべきことは、王道なのか、覇道なのか」
という選択を取ることが出来るわけ。
覇道しかやらないならば、
むずかしいことに力を取られて、
無駄な努力をやってそれが効果的じゃない場合もあるわけ。

じゃあ、一回王道にしてみたら、ということさ。


王道はいろんな人たちがつくりあげた、
最小労力文法というべきものだ。
それを出来るに越したことはない。
絵でいえばデッサンみたいなものだ。
基礎ができて初めて冒険できる。
最悪基礎通りにやればいい、と安心して冒険するのと、
どうなるかわからないものを延々冒険し続けるのでは、
基礎を持っているほうが安心して冒険できるというものだ。

その為の技術として、
王道を練習しておくといいぞ。


もちろん、王道なのに新しいとか、
王道なのにものすごく面白いとかなら、
王道側に転向してもいいぞ。
わざと覇道で尖らなくてもいいし、
たまに尖りたければ別の尖り方をやってもいいのだ。
posted by おおおかとしひこ at 07:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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