ざっくりいうと、王道と覇道がある。
王道は誰もが納得するメジャーなやり方、
覇道はマイナーだけど突破するかもしれないやり方。
若いうちは尖って覇道を選びたがる。
まあそれは止めない。存分にとがりなさい。
その上で、王道をあえて練習する時間を設けるとよい、という話。
ある場面がある。
これを尖った、特殊なやり方で描くことをしようとしているとしようか。
それをどう描くかを考えているとき、
あえてやってみるのだ。
「王道だとどうする?」ってね。
それはある意味、
使い古された、誰もが見たことのある、
ベタな、当たり前すぎるものである。
だが逆に、
映像文法としてはしっかりしていて、
誰もが分かりやすく、
誤解を生むこともなく、
最小の労力で伝わるものであるはずだ。
その、よくできた王道を、
使いこなせるならば、
(多少古いとはいえ)すっとそこは流れるということだ。
つまり、
王道をマスターする目的は、
王道そのものを使うことにはない。
労力のいらないところは王道で、
いざ決めるときには、オリジナリティあふれる、
覇道を工夫すればいいぜ、
ということを言おうとしている。
全編を覇道で埋め尽くすと、
わけのわからないとがりすぎたものになることがある。
そういうときは、
決めのシーンはそのようにして、
他にどうしてもわからないといけないところとか、
説明部分とか、前提部分とかは、
王道にしておくほうが伝わりやすいし、
作る労力も少なくて済むぜ、
ということ。
逆に、王道がいかに労力なくして作れるか、
というエネルギー最小状態に来ていることを、
王道を通じて体験するといいよ、
ということ。
王道はつまりは使い古された獣道である。
誰もがそこを通るから、
つまらないし、
そうじゃない荒野に出ようという意思が覇道だ。
だけど覇道はしんどいし、
必ずしも成功するとは限らない。
この際、誰もが通る王道を、
使えるようになっておこうぜ、
そうしたら、
「これからやるべきことは、王道なのか、覇道なのか」
という選択を取ることが出来るわけ。
覇道しかやらないならば、
むずかしいことに力を取られて、
無駄な努力をやってそれが効果的じゃない場合もあるわけ。
じゃあ、一回王道にしてみたら、ということさ。
王道はいろんな人たちがつくりあげた、
最小労力文法というべきものだ。
それを出来るに越したことはない。
絵でいえばデッサンみたいなものだ。
基礎ができて初めて冒険できる。
最悪基礎通りにやればいい、と安心して冒険するのと、
どうなるかわからないものを延々冒険し続けるのでは、
基礎を持っているほうが安心して冒険できるというものだ。
その為の技術として、
王道を練習しておくといいぞ。
もちろん、王道なのに新しいとか、
王道なのにものすごく面白いとかなら、
王道側に転向してもいいぞ。
わざと覇道で尖らなくてもいいし、
たまに尖りたければ別の尖り方をやってもいいのだ。
2024年03月19日
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